「わかりきっている負け」に突っ込んだ日本

 実は日本の組織には、こういう「負けパターン」が異様に多い。データなどから客観的に分析をすると、どうやっても「負け」が見えている場合、避けるためには、過去の成功体験をリセットして、従来の方法論や従来の組織をガラリと変えなくてはいけない。

 しかし、そういう議論を始めるとどこからともなく、「待て!そんなことをしなくても日本が負けるわけがない!」という絶叫が聞こえてくる。従来の手法や組織を変えるということは、これまで投入してきた人やカネがすべて「ムダ」だったということを認めざるを得ないということだ。そんな屈辱を絶対に受け入れられない勢力との争いが勃発して、組織が機能不全に陥る。結局、何も決められず、何も変えられず、進退極まって「わかりきっていた負け」へと突っ込んでいく。

 その代表が、ちょうど80年前の今頃起きている。そう、1941年12月7日にはじまった太平洋戦争だ。

 ご存じのように、この戦争は始まるかなり前の段階から「日本の負け」はわかりきっていた。当時、アメリカの石油生産能力は日本の700倍、陸軍の「戦争経済研究班」も「対英米との経済戦力の差は20:1」と報告している。この国と戦争をしてもボロ負けする、というのは海軍、陸軍、内閣、そして天皇陛下まで共通の認識だった。

 1941年4月、当時日本の若手エリート官僚などを集めた「総力戦研究所」で、データに基づいて客観的かつ科学的に分析しても「日本必敗」という結論は変わらなかった。しかも、「緒戦は優勢ながら、徐々に米国との産業力、物量の差が顕在化し、やがてソ連が参戦して、開戦から3〜4年で日本が敗れる」とほぼ現実通りの敗戦シナリオまで読めていた。

 しかし、この8カ月後、日本は戦争を始める。そこでよく言われるのは、アジアの白人支配をもくろむ英米の謀略で、ABCD包囲網やハルノートという理不尽な要求を突きつけられたせいで、日本は戦争に突入させられた、という「日本、ハメられた説」だ。しかし、戦史・紛争史研究家の山崎雅弘氏が、「太平洋戦争は本当に避けることができなかったのか」で指摘しているように、歴史を客観的に検証すれば、それはかなりご都合主義的な解釈だ。

 日本政府と軍上層部が消極的に開戦に流れたのは、「これまでやってきたことの否定」を最後まで嫌がり、その責任を押し付けあっているうち機能不全に陥ったからだ。