ガーシー氏による暴露ではないが、例えば、多目的トイレを使った不倫行為を面白おかしく報じられた芸人のケースだと、この暴露で不当で甚大な被害を受けたのは彼の妻子であっただろう。暴露自体は、公益性はどこにもない、興味本位の迷惑行為だ。

 暴露の対象が政治家であっても、内容が賄賂といったことなら価値があるが、個人的な行動には公表の価値がない。ガーシー氏的な暴露の大半が単に下品で迷惑なものとして扱われるようになるところまで、社会の常識が達していないのは残念なことだ。

 他方、ガーシー氏の存在は教訓的でもある。今の世の中にあっては、スマ−トフォンを一台持っている人物は、目の前のことを何でも記録して、広く暴露することができるのだ。仲間だと思っていた相手でも、立場や考えが変わる可能性がある。実質的に相互監視の時代だ。「自分には隠せるものなどない」と思っておくくらいでちょうどいいのだ。

 さて、全く支持しないガーシー議員なのだが、彼が「除名」という処分を受けることが適切なのかと考えると、筆者は、心に「ひっかかり」が二つ残る。

 囲碁の世界には、「手割り」と称する考え方がある。例えば、白黒5石ずつでできた形に対して、不要な石を白黒同数(たとえば2個ずつ)取り除いて、別の形と比較評価した場合に、「互角」と思われていた判断が、「有利」になったり「不利」になったりする。幾何学の問題を解く際の補助線に近いかもしれない。以下、二つの手割りを考えてみたい。

「白票」と「ガーシー」と
どちらを取るか

 第一の手割りの検討は、選挙における白票との比較だ。

 一般的な民主主義のプロセスに対する評価では、「白票」は「棄権」とは意味が異なって、それなりに尊重される投票行動だ。棄権が単なる不参加、あるいは無関心の表出にすぎないのと異なり、白票は、投票に参加した上で、投票の対象になる候補者ないし議案には賛成できるものがないと表明する行為だ。

 では、参議院選挙の全国区の候補者に投票したい人物がいなくて、同時に政治に大いに不満があることを表明したい有権者は、「棄権」するのがいいのか、「白票」を投じるのがいいのか、「ガーシー」と書くのがいいのか。