脚本家、演出家、俳優、映画監督など多方面で活躍する宮藤官九郎。そんなクドカン作品の根底にある「男子同士の絆」と「テレビっ子」的感性とは。本稿は社会学者の太田省一著『誰がテレビを創ったのか 放送作家ほぼ全史』(星海社新書)の一部を抜粋・編集したものです。

高田文夫に憧れた宮藤官九郎
コント作家として番組に携わる

宮藤官九郎「クドカン」こと宮藤官九郎さん Photo:JIJI

 深夜と言えば、三木聡や鈴木おさむとともに、木村拓哉メインの深夜バラエティ『TV’s HIGH』の作・構成に加わっていたのが、「クドカン」こと宮藤官九郎である。彼もまた、放送作家としての経歴を持つ脚本家だ。

 1970年宮城県生まれの宮藤は、『ビートたけしのオールナイトニッポン』の大ファンであり、熱心な投稿者だった。そして、たけしに憧れ、たけし軍団に入ることを夢見ていただけでなく、高田文夫にも憧れた。その絶妙な相槌、合いの手、「バウバウ」の笑い声に魅せられた宮藤官九郎は、他の番組のスタッフテロップでも高田の活躍ぶりを知るようになり、将来の夢を「放送作家」と公言するに至る(高田前掲『誰も書けなかった「笑芸論」』解説、244頁)。

 高校1年生のときには、地元の仙台放送で高田文夫が司会をしていたバラエティ番組『マル金ギャハハ倶楽部』の素人オーディションに友人2人とともに参加し、高田の前でコントを披露したこともあった。ただ宮藤によれば、前半こそまあまあウケたものの、たけし軍団をリスペクトするあまり、最後はパンツを下ろすという挙に出て強制終了させられた(同解説、および宮藤官九郎『きみは白鳥の死体を踏んだことがあるか(下駄で)』、80‐88頁)。

 高校の文化祭などでも自作のネタやパフォーマンスを披露していた宮藤は、高田文夫が雑誌で取り上げていた劇団「ワハハ本舗」に入ろうと考え、高田の母校である日本大学芸術学部放送学科を受験して合格、上京する。だが、「ワハハ本舗」に所属していた村松利史によるプロデュース公演のボランティアスタッフとして働いていたときに松尾スズキと出会い、1991年劇団「大人計画」の演出助手になった。そこで宮藤は、俳優としても出演しながら、脚本を書くようになる(同書、238‐243頁)。2005年には、『鈍獣』で若手劇作家の登竜門として名高い岸田國士戯曲賞を受賞した。その後も大人計画の公演のみならず、外部劇団の公演、歌舞伎公演など、劇作家として活躍の幅を広げ続けている。

 もちろん、放送作家になる夢も捨ててはいなかった。最初は竹中直人がメインのバラエティ番組『デカメロン』(TBSテレビ系、1997年放送)に参加。この番組もそうだが、それ以降も主にコント作家として多くのバラエティ番組に携わった。