医師Photo:nico_blue/gettyimages

『会社四季報』『週刊東洋経済』編集長、そして『ダイヤモンド・オンライン』編集長を歴任した著者が、60歳からパーキンソン病と共に生きるようになった日々を赤裸々に告白する。連載第2回は、主治医の選び方&付き合い方について。(ジャーナリスト 原 英次郎)

長く付き合う病で大切な主治医の存在

 連載第1回の『「俺は今やアンドロイド」元経済誌編集長、パーキンソン病との折り合い日記』では、パーキンソン病の発症と初診を振り返り、俺が「うちのパーちゃん」と妻に呼ばれるまでの顛末を書いた。

 俺が60歳で診断されたパーキンソン病は、完治することはない。ゆっくりと病状が進行していく病だ(もちろん、症状や、病の進行度合いには個人差がある)。

 パーキンソン病とは「長い付き合い」になるので、主治医との相性はとても重要だ。俺と主治医のH医師は、出会ってもう7年。順天堂大学病院にセカンド・オピニオンを申し込んだとき、H医師に担当をお願いして初診を受け、そのまま主治医となった。

 なぜH医師にお願いしたかというと、H医師だけが3カ月待ちと知り、きっと人気があるのだろうな、とその人気に引かれたまでだ。要するに、ミーハー心だった。ふたを開けてみると、H医師はパーキンソン病の権威であり、この病気に関わる人なら誰もが知っているほどの有名人だった。

 前回、H医師の第一印象が「茫洋としてつかみどころがない」と書いたが、実はその雰囲気がとても「いい味」を生んでいた。H医師の口癖は、「(パーキンソン病に)なってしまったものは仕方がない。何でも前向きに考えていこう」だ。

「これもできなくなった。あれもできなくなった…」と嘆くのではなく、「あれもまだできる。これもまだまだできる!」と考えるのがいかに大切かは、老いや病に直面するとよく分かる。

 俺の場合は発症してしばらくすると、食器棚からコップを取り出したり、冷蔵庫からペットボトルを取り出したりすると9割の確率で床に落とすようになり、イライラするようになった。

 けれど、「落ち着いてよくよく注意して取り出しさえすれば、落とすことはないんだ」と思うようにした。H医師の助言を受けての、発想の転換だ。

 もちろん、そう思うようになっても往々に失敗するときもある。けれど、そうやって気持ちを切り替えれば、「できることは、まだたくさん残っている」と思える。

 パーキンソン病患者の約20パーセントが、「レビー小体型認知症」を発症するといわれている。H医師の思考の習慣に倣えば、「5人に1人も認知症になるんだ…」ではなく、「5人のうち4人は認知症にならないんだ!」と、いうことだ。考える方向を変えるだけで、物事は全く違った見え方をする。

 H医師はユーモアのセンスもある。定期診断で患者を歩かせるとき、「かかと、かかと」と号令をかけてくれるのだが、あるときの会話はこんな感じだった。

「かかとから下りないと、転ぶよ」とH医師。
「そういうふうに声をかければいいんですね」と俺の妻。
「奥さんではダメなんだな。いつも聞いている奥さんの声じゃあ、脳の刺激にならないんだ。若い女の子なら、なおいいね」。

 なんてやりとりに、その場に居合わせた一同、大笑いだ。なお、俺の場合は妻の声でも大いに助かっている(と、ここでは一応、書いておこう…)。