人は「パン」のためだけに働くわけではない。いま働いている組織への愛着、同僚との人間関係はもとより、その組織でしか得られない知識や経験に何より価値を置いているからである。これは「シグニチャー・エクスペリエンス」と呼ばれ、その組織の独自性に大きく影響されており、それゆえ模倣が難しい。もちろん、こうした独自性を嫌って退職していく人もいるわけだが、従業員の維持(リテンション)を考えるうえで極めて重要である。

 それだけではない。知識経済やサービス経済、デジタル経済といわれてきたように、資本主義は時代の変化とともに変容し続けている。経済学者の岩井克人氏によれば、大企業による大量生産を特徴とする産業資本主義は、先進国ではもはや終焉を迎え、新たな資本主義、言わば「ポスト産業資本主義」を迎えているという。

 このポスト産業資本主義では、サムシングニューやイノベーションによる「差異性」が成長のカギを握っている。差異性の源泉とは何か。言うまでもなく人間であり、とりわけ当該組織の価値観、歴史、技術、慣習などを理解し、その組織で鍛錬を重ねてきた人材がキーパーソンであるという。こうした人材を、経済学では「組織特殊的人的資産」と呼ぶ。まさにシグニチャー・エクスペリエンスの賜物といえる。

 近年、リスキリングが注目され、国を挙げて推し進められているが、濡れ落ち葉に例えられる中高年を対象とした学び直しを意図していることが多い。しかし本来は、年代に関わりなく、知的怠慢を戒め、自己鍛錬に努めることを推奨するものだろう。人的資本という考え方が価値創造の担い手を目指すならば、組織メンバー一人ひとりの知識や能力を引き上げ、これを活用する取り組みが期待される。

 新型コロナウイルスの世界的蔓延によって、サービス産業のほとんどが深刻な打撃を受け、とりわけグローバルビジネスでもある旅客業は大きく業績を落とした。そうした中、まさにシグニチャー・エクスペリエンスに裏付けられた、ロイヤルで高いスキルと能力を持った従業員たちを、そのやる気を損なわずにもれなく活躍させ、この苦境を乗り越えた企業がある。ANAホールディングスである。

 業界全体で旅客需要が蒸発する中、ご多分に漏れず、ANAも生き残りを賭けて、給与カットはもとより「聖域なき」コスト削減とダウンサイジングを敢行した。さらに、のべ約2300人の従業員を、320もの自治体や外部企業に出向させた。この苦渋の決断に当たっては、多くの社員が退職してしまうかもしれないという懸念があったが、それは杞憂であった。ほとんどが辞めることなく、これまでに培われたホスピタリティやコミュニケーション力によって出向先でも高いパフォーマンスを発揮し、高評価を得たという。そしてコロナ禍が収束に向かうと、ライバル以上の業績を叩き出し、復活を世に示した。

 この物語を聞いて、第2次世界大戦ですべてを失った出光佐三(出光興産創業者)が、従業員を一人たりとも「馘首(かくしゅ)せず」という大方針の下、農業などの1次産業のほか、ラジオの修理、タンク底にある石油の回収、印刷業など、畑違いの仕事で臥薪嘗胆し、みごと復活を果たしたエピソードが思い浮かぶ。

 離職率、従業員エンゲージメント調査、就職・転職人気ランキングなど外部データが示すように、従業員の意識や考え方は様変わりしている。未曾有の危機の中でそのことに気づかされたANAホールディングス芝田浩二社長との対話から、働きがい、組織と従業員の関係、さらには人的資本経営の針路について考えてみたい。

社員の共感なしには
一歩も前に進めない

編集部(以下青文字):この3年、航空業界は外部要因の影響がとりわけ大きかった産業の一つで、ANAは2021年3月期に4647億円の営業赤字を計上しました。新型コロナウイルスの感染が拡大し始めた2020年初め、芝田さんはグループ経営戦略室長でしたが、状況をどのように認識し、どう行動したのか。当時を振り返っていただけますか。

CXとEXの好循環が<br />変革と新規事業開発を加速するANAホールディングス
代表取締役社長 芝田浩二
KOJI SHIBATA
1957年鹿児島県生まれ。1982年東京外国語大学外国語学部卒業後、全日本空輸(ANA/現ANAホールディングス)入社。2005年アライアンス室長、2012年執行役員欧州室長兼ロンドン支店長、2013年ANAホールディングス執行役員アジア戦略部長などを歴任し、同社きっての国際派としてANAのグローバル化を支えた。2017年グループ経営戦略室長兼グローバル事業開発部長に就任し、グループ全体の経営戦略立案を担当。2020年取締役常務執行役員、2021年取締役専務を経て、2022年4月より現職。コロナ禍からのV字回復とともに、非航空事業の拡大による飛躍に向けて、陣頭指揮を執る。趣味はカメラ、釣り、スキー、将棋と多彩。

芝田(以下略):当時は2018年に策定した中期経営戦略の2年目に当たり、輸送量の拡大などの積極的な施策を打って、さらに成長を加速していこうという時期でした。前年度の2019年3月期では4期連続で最高益を記録するなど、業績も非常に好調でした。そうした中で、奇しくも2019年の夏に「リーマンショック級の危機に襲われたら、我々はどう対処すべきか」というテーマで、経営陣がブレーンストーミングをしていたのです。投資の削減や先送り、あるいは資産の圧縮といった対策案が出ましたが、当時はまだコロナの予兆などまったくなく、そこからわずか半年後にリーマンショックを超える危機が襲ってくるとは誰も考えていませんでした。ですが、いま思い返せば、こうした準備が変化適応力となり、臨機応変な行動につながったのではないかと思います。

 実際、2020年に入ってまもなくパンデミックが深刻化し、不安が募る中で新年度を迎えました。この状況がいつまで続くのか先を見通すことはできませんでしたが、やるべきことははっきりしていました。一つは止血、つまりコスト削減です。そしてもう一つが、手元資金をしっかりと確保することです。大幅な減便や機材の小型化などによりコストを削減すると同時に、借り入れなどの資金調達によって危機を乗り越えようとしたわけです。ところが、春が終わって夏が来ても、いっこうに収束の目処が立たない。もはや長期化は避けられないと覚悟しました。そこで次の策として、予定していた投資の先送りや機材の売却などに踏み込むことになります。

 2020年秋には、従業員のグループ外企業への出向を決断します。これが報道された時に真っ先に思ったのは、はたして労働組合や従業員が受け入れるものだろうかということでした。航空会社には、業界や仕事に憧れを抱いて入社し、誇りやこだわりを持っている人たちが多い印象があります。いくら会社が危機的状況にあるとはいえ、別の業界や異なる仕事に就くのは相当の葛藤や心理的抵抗があったのではないでしょうか。

 グループ外出向を決める前の2020年4月から、日を指定して社員に休んでもらう一時帰休を実施していました。しかし、それだけでは足りず、外部出向に踏み切ることになり、社内には動揺が広がりました。それでも多くの社員が受け入れてくれたのは、包み隠さず現況を伝えると同時に、「必ず復活する」「そこに向かって一緒に進もう」という首尾一貫したメッセージがしっかりと伝わったからだと思います。当時の社長の片野坂真哉(現代表取締役会長)は、従業員に向けて15回にわたりメッセージを発信していますが、一番初めに出したのが「雇用は守る」ことでした。これは非常に大事なメッセージでした。

 もちろんその前提として、考えうる万策を尽くしたという事実があります。減便や機材の小型化、役員報酬の減額、管理職の給与カットなど、大きなものから小さなものまで数えれば切りがありません。航空機を売却する際も、少しでも多く手元に残るように粘り強く交渉を重ねるなど、それこそ1円単位まで絞り出すようにしました。外部出向を決断する前に、やれることはすべてやり尽くしました。コロナが収束するまで何としてでも生き残る。その思いが共有できていたからこそ、社員は不安を感じながらも、経営陣の意図を汲み取ってくれたのだと思います。

 出向者を送り出す際の発令式には片野坂もオンラインで参加して、「大きな声で自分からあいさつしましょう」「新しい環境でも、ありのままの自分で頑張ってください」といった応援の言葉をかけました。それが心の底から語りかけている言葉であることは、すぐに伝わりました。

 私も2022年4月に社長に就任して以降、発令式に3回出席していますが、同じメッセージを使わせてもらっています。さらに、私はこう加えました。「ANAは皆さんにとって実家です。だから、何かあったらすぐに実家に連絡してほしい。家族としてあなた方を全力でフォローする。そして、出向期間が終わったら元気よく帰ってきてほしい」

 何をやるにしても、社員の共感が得られなければ一歩も前に進めません。会社の置かれている状況、それに対する経営陣の施策とその効果を、社員の皆さんにできる限り正確に伝えました。そして、理解してもらえたからこそ、本当に苦しい局面でも力を合わせて同じ方向に進むことができた。この3年間を通じて、あらためて共感の大切さを痛感させられました。