初期の豊臣政権において
家康より上位だった信雄

 織田信長の次男・信雄は、暗愚な人物として語られることが多い。大河ドラマでも、これまで主要キャストであったことはなく、地味な俳優が演じてきた。

「どうする家康」で織田信雄を演じる浜野謙太さん「どうする家康」で織田信雄を演じる浜野謙太さん Photo:JIJI

 だが、信雄は、初期の豊臣政権では正二位内大臣で、徳川家康や豊臣秀長より上位だった。しかも、賤ヶ岳の戦い前夜から小牧長久手の戦いまで、織田家当主であり、秀吉の主君だったのだ。

 にもかかわらず、伝記は皆無であり、別の人物の伝記に脇役として登場するだけである。信雄の読み方は「のぶかつ」か「のぶお」か、とか、家族関係など諸説あるが、通説に沿って話を進める。詳細は、『令和太閤記 寧々の戦国日記』(八幡衣代と共著)に詳しく書いた。

 織田信長は斎藤道三の娘・帰蝶(女性の名前は原則不明なのでよく知られたものを採用)と結婚したが、子がなかったので、道三が死んだころから側室を置いた。第二夫人といった存在が、生駒一族の吉乃で、信忠、信雄(1558年生まれ)、五徳(松平信康夫人)の母である。

 吉乃は早く死に、信雄は11歳の時、伊勢国司で南伊勢を支配する北畠具教の婿養子のような立場になった(形式的には具教の嫡男具房の養子)。信長は武田との通牒を理由に北畠一族を皆殺しにしたが(1576年の三瀬の変。信雄19歳)、具教の娘である雪姫は正室のままとした。