信長も計画していた
大陸への進出

 大陸進出は、信長も計画していたといわれ、秀吉の思いつきではない。会社に例えるなら「全国展開が一段落ついたので、次は海外進出」というのは、大航海時代なら自然なことである。

 初めて海外進出するときには、社内でも消極的な人もいる。慣れない海外進出は失敗も多いし、「海外勤務は給料が上がっても嫌だ」という人も多い。それと同じで、大名でも喜び勇んでという者もいたし、慣れない異国の地に行くのを嫌がる者もいた。

 日本史を振り返ると、時代によって海外への関心は違う。秀吉の時代から1000年ほど前の「倭王武(おそらく雄略天皇)」は、中国の皇帝に出した手紙で「私の祖先は、自ら甲冑を身につけ、山川を跋渉し、畿内から出て、東の方は毛人の五十五国を征し、西の方は衆夷六十六国を征服し、海を渡って北の九十五国を平らげた」と書いた。つまり、東日本と西日本と朝鮮半島を征服し、半島の南部から関東地方までが領土だった。

 しかし、その後、半島では百済や新羅が成長したため日本の領土維持は難しくなり、最後は、日本と手を組んだ高句麗や百済が、唐と組んだ新羅に負けたので、日本は撤退した。のちに、恵美押勝は唐の混乱に乗じて派兵しようとしたが、政変で腰砕けになった。その後は、東北開発に力を入れたので、新羅の滅亡は半島での地位を回復するチャンスだったが見送ったし、高麗や契丹から日本と交流したいという使節が来ても断った。

 源平の争いでは、西日本に勢力を伸ばし、中国との貿易に熱心だった平家と、それに消極的だった源氏が争い、後者の関東武士が勝った。

 鎌倉時代には、モンゴル人が、高麗や中国の人々を束ねて日本を支配下に置こうと攻めてきたが撃退した。

 室町幕府は南北朝の対立や、関東での争乱があったし、中国では明国、朝鮮では李氏朝鮮が全盛期にあったので、強力な外交政策を進められなかった。

 一方、西日本の人たちや明国政府に不満な沿岸部住民が、元寇の仕返しということから出発して、朝鮮半島や中国の沿岸を荒らし回り「倭寇」と呼ばれた。

 明国や高麗・李氏朝鮮は、倭寇を抑えたら、正式の貿易をしてもうけさせてやろうということを幕府に持ちかけ、勘合貿易が行われた。のちには、周防の大内氏が細々と将軍の名を使って、博多商人に船を出させていたが、大内義隆が殺されたのちは、明国から受け入れを拒否された。

 こういう状況のなかで、南蛮船がやって来て、鉄砲やキリスト教を伝えたり、東シナ海での日本と中国の貿易などでも主導権を取ったりしたのが、秀吉が登場した時代である。