地名に残された「つぼ」の痕跡

 ところで、周辺を取材する中で、興味深い事実を発見した。東北町がある上北郡と、近隣の十和田市と三沢市を含めたエリアを現在「上十三地方」と称するが、この地域をかつては「都母村(つもむら)」と呼んでいた歴史があるのだ。

 さらに、日本中央の碑が発見されたのは、千曳集落と石文集落の中間辺りに位置する湿地帯である。「つぼのいしぶみ」とはもともと、「都母の石文」であったのではないかと考えることに、さほど無理はないはずだ。

 なお、「日本中央」の正しい読みは「にほんちゅうおう」ではなく「ひのもとまなか」であるといわれ、かつて東北地方を「ひのもと」と読んだ時代があることも分かっている。列島の中心とは程遠いこの地がなぜ「日本中央」なのかという疑問も、これで解決できる。

 一部の研究家の間では、北海道や千島列島までを含めれば、ここを日本列島の中央と捉えることは可能であるという意見もあるが、このあたりは調査と議論のさらなる進展を待ちたいところだ。

 真実はいまもなお謎のベールに包まれたまま、今日も「日本中央の碑」は東北町に鎮座している。ぜひ、平安時代から語り継がれてきた「つぼのいしぶみ」をその目で拝み、歴史にあれこれ思いをはせてみてほしい。

坂上田村麻呂の遺物「日本中央の碑」は本物か、青森の巨石に刻まれた謎を検証赤川沿い、「つぼのいしぶみ」の発見場所に立てられた記念碑  Photo by S.T.