「がんばろう!日本」震災ナショナリズムへの違和感

開沼 被災地の写真は2012年に出版されました。短期間で北朝鮮の写真集も出版されていますよね。

初沢 行ったり来たりでした。気仙沼から東京に戻り、翌日の飛行機で経由地の北京に向かうという感じです。当初、2つのテーマはまったくの別物として取り組んでいました。東京から見れば、どちらも「極限」として認識されている場所ですが、両者に共通項があるとは考えていませんでした。 震災数日後、避難所のラジオで初めて「がんばろう!日本」という言葉を耳にして、「あれ?」と思いましたね。なんでナショナリズムになっちゃったんだろう、と。

 地域の問題が国家の問題に取って代わられた瞬間から、被災事実も復興物語もすべて中央の論理で動き始めていったように思います。原発事故は別としても、今回の震災はやはり1つひとつの地域、それぞれの町や村の問題なんですよ。 2、3ヵ月経って物資は足りているにもかかわらず、全国から届く支援物資が体育館に山のように積み上げられていきました。あまりの量に引き取り手がいないんですよ。暴力的なものを感じました、恩や同情という暴力を。「いったい誰のための“震災ナショナリズム”だったんだろう?」と今でも腑に落ちないですね。

 被災地の復興と日本経済の再生をリンクさせて、日本復活の高揚感を煽ったのは誰の仕業なのか?それはメディアとも言えるし、手前勝手な復興物語を押し付けながら、結局は国民が実態のない団結感に酔いしれていったとも言えます。被災地が見る側の都合で消費されていくなかで、誤解を恐れずに言えば、震災は「国民的エンターテイメント」と化してしまいました。「震災復興チャリティーワイン会」や同窓会の類いが連日催されて、バカ騒ぎをしてましたよね。東京、あるいは中央の論理の中で、客体としての被災地が消費されていく構造を肌身で感じることになりました。ただ、ずっと被災地を回っていると、やはりそれぞれの地域の問題にしか見えないんですよ、どう考えても。

開沼 その通りだと思います。亜利さんの写真を表紙に使わせていただいた『フクシマの正義』(幻冬舎)では、ひたすらそのことを問い続けました。震災から早々に東京の論理で「フクシマ」という記号を弄び、自らの恣意的な“正義”を振り回すゲームが始まった。それを止めることはできなかったけど、冷静に省みる態度は必要です。

初沢 一方で、被災者自身もあまりに取材をされすぎていて、「自分で自分の街をなんとかしないといけない」という気持ちが段々と薄れ、舞台の中心でスポットライトを浴びているような感覚に陥っていきました。震災の半年後くらいから、徐々に“被災者アイデンティティ”が過剰に増幅していくことに対してイライラし始めたんです。 中央の視点を彼らが内面化して、自分たちを「被災者」と呼び特権化し始めることに強い違和感を覚えていました。

なぜ、北朝鮮や被災地の日常を切り捨てるのか? <br />日本の報道から抜け落ちた彼らの素顔に迫る <br />【写真家・初沢亜利×社会学者・開沼博】

開沼 支配する眼差しを内面化するところはありますよね。それが北朝鮮に向いた場合、どういった構造になっているんでしょう。圧倒的に支配しようとする一方的な眼差しがあり、でも実際に現地に行ってみると、当然そこからズレるリアリティがある。こちらの影響力などないわけですよね?日本のメディアの報じ方が彼らに影響力を持つことはないので、内面化どころではない。

初沢 その通りだと思います。「震災」によって一層浮き彫りになった中央と地方の問題は、日本と北朝鮮では語れないですよね。支配と非支配という文脈での共通項はありますが、基本的にはまったく別なこととして取り組んだつもりです。国家間の敵対心ほどメディアとして煽りやすいものはありません。対話を促す論調は、激情型のナショナリズムの前ではかき消されてしまいます。

 北朝鮮写真集の取り組みは、多様性を担保する抗い、というよりはもっとシンプルなメッセージです。他者不在の外交交渉、右傾化する国民心理への警鐘、というような。北朝鮮と関わっていくなかで、西洋型の資本主義・民主主義がどの程度日本に馴染んでいるのか馴染んでいないのかということを考えざるを得ない状況にありました。そして、彼らの独裁・社会主義国家を眺めた時に、「彼らが何をもってそこに棲息しているんだろう」あるいは「彼らから見て日本という国がどう映っているのかな」と興味があったんです。

「なぜ3万人も自殺するのか?」日本への素朴な疑問

開沼 結局、実際に行ってみてもっとも率直にどんなことを感じましたか?

初沢 もっともっと資本主義・民主主義に対して憧れているだろうと行く前には思っていました。言論の自由もないところから解放されたくて、その時を待っていると。ところが案外そうでもない、というのが実感です。この点に関しては「そんなはずはない」と反論は免れないでしょうが……。55年体制が崩壊した後、「二大政党制が本当に日本に根付くのか」といった民主主義の問題や、「長引く不況を経て日本人の幸福度がどのような変化を辿ってきたか」という資本主義の問題を平壌のエリートは冷静に見ているように感じました。

なぜ、北朝鮮や被災地の日常を切り捨てるのか? <br />日本の報道から抜け落ちた彼らの素顔に迫る <br />【写真家・初沢亜利×社会学者・開沼博】『隣人。38度線の北』(徳間書店)より
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 しかし、そんな優秀な彼らにもどうしてもわからないことがあるようです。「日本人は買いたい物は何でも買えるし、言いたいことも言える。なのに、なぜ1年で3万人も自殺しちゃうんですか?」と現地の外務省の人にも旅行社の人にも訊かれました。これは彼らにとって本当に理解できない疑問なんだそうです。 「我々世代がこういう状況にあって、それ故にこういう人たちがこういうふうに自殺をしていくんだよ」と部分的に説明はできても、彼らが「そういうことなんだ」と納得できるほどまで僕には説明することができませんでした。

開沼 なるほど。

初沢 資本主義・民主主義の功罪を見極めつつ、自分たちのシステムが絶対的に、未来永劫ダメな政治体制なのかを冷静に考えている人たちがあの国にはかなりいるのではないか、と感じました。

開沼 当然、北朝鮮で生きる自分たち自身の社会を相対化もしている。逆に、日本に生きていると北朝鮮を絶対的にダメだと思ってしまうし、その半面で自分たちの社会を絶対的に“マシ”だと思ってしまっているのかもしれません。でも、なぜ北朝鮮より“マシ”なはずの日本で3万人を越える自殺者や、ワケのわからない不幸が起こっているのかということですよね。そこは日本に生きる人が向き合いきれていないことでしょう。

初沢 そういえば、つい先日沖縄に行ったんですよ。右翼の方20人に紛れて戦没者の遺骨の収集をしてきました。夜みなさんと食事をしたのですが、さすがに20人もいると考え方も多様で段々と議論になっていきます。途中で、「北朝鮮についてはどう思われますか?」とおもむろに写真集を見せたら、案外みんな興味深そうにページをめくってくれました。「拉致問題は許せないけど、人権問題を考えると援助したほうがいいだろう」と言う人が多かったのには驚きましたね。もちろん全員ではないですが。

 その中の1人は、「日本の援助によって北が経済的に持ち直して南北統一が実現することで、南との争点になっている従軍慰安婦や竹島問題に北朝鮮が加勢することなるのであれば、北朝鮮への援助は躊躇せざるを得ない。ただ、現状の北朝鮮そのものは、我々からすると理解できる部分もあるんだ」と。彼らの怒りの矛先は、現状では北朝鮮よりも韓国に向いていることを改めて知りました。