年末の風物詩となったM-1グランプリ。そんなM-1をつくった元吉本社員の谷良一氏が、実現までの道のりをつづった『M-1 はじめました。』(東洋経済新報社)を上梓(じょうし)した。M-1を作った谷氏に、イベントを成功させる秘訣などを聞いた。(清談社 沼澤典史)

M-1開催のきっかけは
島田紳助のアドバイス

写真:島田紳助島田紳助氏 Photo:SANKEI

 2023年12月24日、若手漫才師の日本一を決めるM-1グランプリの決勝戦が開催された。19代王者に輝いたのは結成5年の令和ロマン。トップバッターからの優勝は第1回大会の中川家以来ということで、大きな話題となった。M-1は、今や多くの国民が勝負の行方を注目する大会だが、これを企画したのが谷良一氏だ。

 まずは、谷氏がM-1を創設するまでの道のりを見ていこう。

 谷氏は1981年に吉本興業に入社後、横山やすし、西川きよしなどの芸人のマネジャーや劇場のプロデューサー・支配人などを務めていた。現場に出て、芸人たちとバリバリ仕事をこなしていた谷氏だったが、2000年以降は制作部の補助やアシスタントといったデスクワークを命じられていた。そんな「毎日会社に行くのがつまらなかった」と、くすぶっていた谷氏に転機が訪れる。

 大﨑洋(元吉本興業会長)とともに漫才ブームを築き、ミスター吉本と呼ばれていた木村政雄常務(当時)に「漫才を盛り上げるプロジェクトをしてくれ」と頼まれたのだ。このプロジェクトが、のちのM-1になる。

「プロジェクトの命を受けた後、劇場での漫才イベントなどを行いましたが、かつての漫才ブームのような大爆発が足りない、中心になるものが足りないと感じていました。そんなときに、以前私がマネジャーをしていた島田紳助さんの楽屋を訪ねたんです。すると、紳助さんは『若手のコンテストをやったらどうや』『優勝賞金を1000万円にしよう! 金の力で漫才師の面をはたくんや!』と提案してくれました。私も、『いいですね。ぜひやりましょう』と言い、開催に向けて動き出したんです」

 以後、谷氏らプロジェクトメンバーは、賞金を提供してくれるスポンサーや放送してくれるテレビ局探しに奔走することになる。当時、お笑いのコンテストで1000万円という賞金は破格だったため、特にスポンサー探しは難航したという。

「今でこそ、大きい大会になりましたが、当時はまだ形のない企画段階とあって、なかなかスポンサーが見つかりませんでした。私は『こんな面白い企画に、乗ってこない企業やテレビ局がないわけがない』と思って、楽観していましたが、現実は甘くなかったですね」

 数社に断られ続けたのち、結果的にオートバックスがスポンサーを引き受け、放送局は大阪の朝日放送に決まった。ただ、どちらも決まったのは、2001年8月の開催記者発表ギリギリという、「綱渡り」の状況だった。

 その後、予選には1603組の芸人が参加。中川家の優勝で幕を閉じ、大会は成功を収めた。