人の運命は違う。どのようなものであれ、それは外から与えられたものである。しかしその晩年において「そうか、これが自分の運命であったか」と、その運命を受け入れることである。

 高齢期になったら自覚的に自らの運命を受け入れる。たまたま生まれたのが地獄であれ、天国であれ、それが自分の人生である。

 その自分の人生に対して責任を負う決断をするのが高齢期の人間である。そこに自分という存在がこの世に生まれてきた意味が生じる。

 自分の運命を引き受けるときに、あまりの不公平に多くの人は神を恨み苦しむ。しかし自分の運命を引き受けるときは、自分の人生の苦しみに意味が賦与されるときである。

 この世の地獄に生まれて高齢期まで生きてきた人もいるだろう。そういう人は心にいろいろと問題を抱えている。しかし「心にいろいろと問題を抱えながらも今日まで生きてきた自分は凄い」とまず自分を認めることである。

 まず自分が心に問題を抱えているということを認めること、次にその自分は凄いと認めること。この二つを認めることなしに、その先の人生はない。

 恵まれた人間環境の中で成長した人の人生は、はたから見て波瀾万丈でも、想像されるほど苦しい人生ではない。

内的成熟とは
無常を理解する力

 人生を高齢期まで生き抜いてきた自分のエネルギーを信じることである。戦い続けた生きる姿勢を信じることである。

 今まで戦い続けて50代になった。このまま戦い続けて生きていくことで、60代になったら、あなたの人生は芳香なる匂いが出てくる。しかし先の二つを認めなければ、80代になったら死臭のする人生になっている。

 テレンバッハは、思春期は「展開的成熟」の時期であるという。この時期は自己形成および自己発見のための時期である。そしてその自己拡張的な展開が限界に来て、その時期が終わり次は成熟の時期に入る。

 それは外に向かって拡張していくのではなく、自己の内面へと向かう時期である。テレンバッハはそれを「内転的凝縮成熟」(*注1)と名づけている。