「内転的凝縮成熟」とは、どういうことか?

 ある人が4月の朝、公園を散歩していた。地に散った桜を見て「桜は綺麗だな」と感じた。地に散った桜を見て「桜は綺麗だな」と感じるのは、その人がやさしくなった証拠である。それが内的成熟である。心に余裕があったからそう感じたのである。

 高齢期を充実して生きられていない人は、高齢期になっても外への拡張の時期から内面の充実に方向転換しなかった人である。

 それぞれの時期で生き方の転換をして新しい生の形式を達成することが難しい人は、歳をとって幸せになることが難しい。「我が人生に悔いなし」と言ってあの世に行くのは難しい。

 若い頃は「あれができる、これができる」という発想で良いかもしれない。こんなに速く走れる、こんなに大きな事業を成し遂げた、こんなに多くの外国語を話せる、こんなに多くの人を知っている、こんなにお金を儲けた等々は外への拡張期の発想である。

 要するに「形」を問題にした発想である。

「心」を問題にした発想では、外から内への転換ができないと老いてから不満を抱える。そうした発想で高齢期を迎えれば悩みは出てくる。定年退職にでもなれば、落ち込む人も出てくるし、なかにはうつになる人が出てきてもおかしくはない。

 若い頃の発想でいくと、年老いて不満が出る。歳をとることを「衰える」と見るのは、外的拡張の時期の発想である。

「形」に囚われず
「心」を豊かにしよう

 内的成熟とは、相手をあるがままに愛せるようになることである。人は歳をとると寂しくなるから、そういう人のところに人は集まる。人は、最終的には前向きな話に集まる。

 高齢期において恐ろしいのはコミュニケーションできない人である。愚痴を言う人、疑う人は、老いた人にとっては良くない。避けることである。そういう心が伝染する。

 内的成熟は安らぎ。自分に欠けているものを知っている人、それが安らぎを見つけられる人。自分を知っている人でないと安らぎは見つけられない。

 自分を知っている人とは、自分を一所懸命生きた人である。「形」に囚われて動くと最後まで自分が見つからない。