たぶんそういう開き直りから、言葉のバリエーションは育まれていくのでしょう。その先にやっと、罵倒より豊かな褒めの世界があるのだと思う。だからみんなもっと開き直って、自分の好きを褒めていこうよ。それが自分の言葉であればあるほど、尊いものになるはずだから。

自分の中だけで「好き」でいることと
他者に「好き」を布教するのは大違い

 自分が好きなものを他人におすすめするのは、案外に難しいと思いませんか。ひとくちに「推し」と言っても、セルフで推すのと第三者へ推すのとでは行為のベクトルが異なる。

 自分の中だけで好んだり応援したりはのびのびできるけど、自分の好きを他人へ布教するとなると、ぴたりと足が止まる人は多いと思う。

 上ずった声音と早口で自分の得意分野をまくしたてるオタクの姿がステレオタイプ化したせいか、なにかを濃く好きな人は饒舌だと思われがちだ。

 だが実際はそうではない。腕のいい職人が寡黙なように、自分の好きを内燃機関として求道的に推しを極める人に、みんな心当たりがあるにちがいない。

 そうでなくとも、自分の好きを語るのは難しいのだ。自分の好きを語るには自分を覗き込む必要がある。

 自分を覗き込み、自分の感情の出処を探り、場合によっては自分の奥深くで厳重にしまいこんだ記憶すら引っぱり出さなければいけない。それは人によっては、そうとうつらい時間になりかねないだろう。

 しかも好きを語るには、それだけでは終わらない。自分を覗き込み、すくい上げてきたものを手のひらに乗せて、ためつすがめつ眺めなければいけない。

 主観を手にした後、一度客観の側に回り込んで自分を眺める。それこそが自分の気持ちを言語化する一歩目となる。そうやって時間をかけ、推すという行為がようやく完成に向かうのだ。