ましてやいまは「尊い」という便利な言葉がある。広くて便利なテンプレワードに流れず、自分の言葉を紡ぐにはそうとうな集中力がいるだろう。もちろんテンプレを使ったってなんら問題はない。

 問題はないけれど、ほんのひと時でも自分を覗き自分を眺めるという修行を課すことは、のちに自分への肯定と自分の表現につながるはずなのだ。そうすれば、そこから先はあなたの芸術となる。私はそう思いながら、たまに歯を食いしばって、自分の好きに向かい合う。

自分の好きを他人にすすめるのが
簡単ではない当然の理由

 繰り返すが、他人に自分の好きをおすすめするのは簡単ではない。家電や道具ならまだしも、それを使って便利だった点を具体的に説明すれば、おすすめする用は足りる。だが人や作品はそう単純ではない。利便性や効率とは別のところで、あなたの心を打つから。

 だいたい、好きは出合い頭に訪れるのだ。まるで事故のように、私たちはだれかの作品や表現に出会ってしまう。出合い頭の事故に理由が説明できないように、私たちは好きのはじめに、その理由をあれこれと饒舌に語ることはできない。

書影『スマホ片手に、しんどい夜に。』『スマホ片手に、しんどい夜に。』(講談社)
山本隆博 著

 だから好きをおすすめしようとすれば語彙が消えるというのは、至極まっとうなことだと思う。

 自分の好きを語るには時間と労力を要する。だから作者は、推すの手前にシンプルなアクションがあると主張する。RT(リツイート)だ。自分で語る言葉が自分の中で熟成されるまでは、私以外のだれかが出合い頭の事故に遭う確率を増やすのだ。

 SNSの功罪はとかく語られがちだけど、RTやシェアというアクションによって、好きを語る難しさのハードルを下げたことは、世界に功をもたらしたのではないか。

 そしてそれは着実に、表現する人を勇気づけ、表現しようとする人を増やしてきたはずだ。その点において、世界は着実に豊かになっていると私は信じている。推すのは難しいけど、できることは増えたのだ。