「バズっても素直に喜べなかった卑屈な漫画家が自分の作品に誇りを持とうと決めた話」(さく兵衛著、同書より転載)「バズっても素直に喜べなかった卑屈な漫画家が自分の作品に誇りを持とうと決めた話」(さく兵衛著、同書より転載) 拡大画像表示

 特に何度か自分の漫画がバズったことのある作者は「それがどうした」という空虚さも経験している。日頃からそういうバズった漫画を楽しんでいる私でも、その現象がもう少し本人のモチベーションや収入に還元される仕組みはないものかと、老婆心を抱いてしまう。バズったら宣伝できるだけじゃ、あまりにサクセスがささやかすぎないか。

 ただし作者はその後、特別な経験をする。自分の作品が、ある人の表現のきっかけになったことを知るのだ。どこかのだれかが「漫画を描きたい」と決意したという、極めて個人的なエピソードを本人から伝えられたのだ。

 その小さな経験は、表現を行う人にとって、強烈だったにちがいない。だれかの人生に影響を与えたという実話。成功が不透明な時代に、そんなパーソナルなエピソードは意外な力をもたらす。ひとつでもふたつでも、手触りのある実感こそが、表現を続ける動機になる。

 考えてみればSNSは、その実感が交換される場所でもあるはずだ。自分の表現がカウンターの数字としてくるくる躍る中、リプで、コメントで、DMで、どこかのだれかの個人的な思いやエピソードがそっと寄せられる。

 そのひとつひとつに目を凝らせば、それはあなたの表現が到達した、あなただけの成功だ。そしてその地点は、もうプロと胸を張っていいのではないか。

バズるコツを意識するよりも
「離脱されない」ことが第一

 仕事柄、バズるツイートのコツを尋ねられることも多く、そのたびにあいまいな顔でお茶を濁すのですが、実際のところそのようなコツは持ち合わせておりません。

 とはいってもバズるコツ、あるにはあると思います。みんながスマホを見る時間帯にツイートするとか、絵文字を使いましょうとか。ですが、私が気にしていることは別の場所にあって、それはバズではなく「離脱されないか」という点です。

 つまり「こいつの話を聞き続けてやろう」と思ってもらうために、いかに工夫するか。そもそも私は企業アカウントなので、しょせんは宣伝。結局は自己アピール。この場合は自社アピールか。そして企業の自己アピールなんぞ、ネットにいるみなさんには聞く義理がない。

 友だちや好きなモノに囲まれるのがSNSなんですから、当たり前ですよね。それでもなお、フォローしてツイートを見てやろうと思い続けてもらうためには、注意も努力もたくさん必要なのですが、まずはひとつ。話し方の問題です。