“ジャパン”の背後に
ちらつく中国という影

 2012年8月、約10年間過ごした中国を離れ、アメリカはボストン、ハーバード大学に拠点を移した。ボストンはグローバルな意義における「発信の場」であり、ハーバード大学だけでなく、マサチュッセツ工科大学(MIT)やタフツ大学フレッチャースクール、ボストン大学、ボストンカレッジなど、国際関係や東アジア問題に関する学術的議論を展開するには、何物にも代えがたい場所であることを現場で感じてきた。

 私自身、「激動」というにふさわしい北京での格闘の日々とは一味違った、良くも悪くも「落ち着いた」時間を過ごせている。研究、議論、執筆の三本に集中できることは嬉しい限りだし、人間、環境を変えてみることによって、初めて会得できることがあるものだと改めて感じている。

 場所は変わっても、私の周囲では「中国」は常に議論の中心であり続けた。

 ハーバードのキャンパス内で、ボストンを拠点に活動する研究者と日々意見交換をしているが、話し相手が日本人である私であっても、「日本」が話題に上ることはほとんどない。終始「中国はいま……」、「中国はこれから……」、「中国はなぜ……」、「中国はどのように……」という議論が繰り広げられる。

 時々、日本の政権や政策に関する質問を受けるが、その際も「日本はなぜ尖閣問題で中国ともめるのか」、「安倍政権になって以来“日本の右傾化”が叫ばれているが、中国との関係が更に悪化するのではないのか?」、「アベノミクスによって、日本の経済的地位は中国に比べて向上するのだろうか?」など、常に背後には「中国」という影がちらついている。

 中国に関するパネルディスカッションやセミナーは後を絶たない。ハーバード大学の学生でも中国語学習は大人気であり、ケネディースクール(公共政策大学院)、ビジネススクール、ロースクール(法科大学院)で学ぶ各国の知り合いも学部生向けの中国語科目を受講している。「キャリアアップを考えるうえで、中国語の習得は間違いなくプラスに働くから」というのが受講理由であるようだ。

 研究者・専門家との議論だけでなく、中国・中国人・中国語を巡るパッションを体で感じるだけでも、私が日本を離れてから10年間向き合ってきた“中国・中国人”というテーマを、改めて掘り起こす勇気と好奇心が湧いてくる。