岩佐 最終的に現地に住み続け、働き、生活していくのは被災者の方々ですから、それではいけません。真山さんの作中にも、仕事がなくなった漁師の父親が避難所でお酒ばかり飲んでいる描写が出てきていました。

真山 実際にそういう方が多かったようです。そういう人たちになぜ、瓦礫の撤去を仕事としてさせてあげないのか。被災者ではあっても、弱者として扱うだけではよくないと思います。彼らは力があるし、自尊心が傷つけられているんだから、労働の報酬を受け取ることでどれだけ気が楽になるか、と思うんです。

岩佐 その通りですね。

必要なのは“援助”ではなく“支援”の発想

真山 実はそうした被災者がボランティアに頼りきってしまった状況は、ボランティアをする側にとってもあまりよくない事態を生みました。たとえば、ボランティアで来た都会の若者のなかには、被災地で生まれてはじめて「ありがとう」と言われたという人が少なくない。すると、被災地を「自分の生きる場所だ」と思ってしまい、一週間の有給休暇期間で帰る予定だったのに会社に電話して仕事を辞めてしまう人まで出てくる。

岩佐 それは、ずいぶん思いきった行動ですね。

真山 そういう人のなかには、都会に帰ると引きこもりになってしまうケースもあります。「ありがとう」と言われないし、周りの友達にボランティアの素晴らしさを話しても敬遠されてしまう。そして、また被災地に行くことを熱望するようになる。

岩佐 「生きる場所」が逆転した状態になってしまうと。

真山 無料で働いて、人に感謝してもらうのは本当に素晴らしい体験ですが、やはりそれは冷静に考えてみるといびつなことなんです。非日常の空間でしか成り立たない関係だということを忘れてはいけない。理想は、地元の人と外部の人がそれぞれきちんと立場を持って、適切な距離をつくっていくことです。そのためには、「援助」じゃなくて「支援」の発想を持たなければいけない。
 私達が骨折したときだって、誰かに丸ごと抱きかかえてもらって暮らすわけではないですよね。松葉杖をついて、治ったら自分の足だけで歩くはずです。その足かせにボランティアの存在がなってしまったら、本末転倒だと思います。