1992年5月5日、「ミス・サイゴン」(日本初演)の1年半に及ぶロングラン公演の幕が上がった。本田美奈子と入絵加奈子がダブルキャストで主人公のベトナム少女キムを演じた。ところが2ヵ月後の7月3日、第1幕の舞台上の事故で本田が重傷を負う。第2幕に入絵が駆けつけ、約20分遅延してこの日は終わる(連載第62回)。このような緊急事態に備えてキム役を練習し続け、本番ではアンサンブル(合唱)で出演していた伊東恵里が登場することになった(文中敬称略)。
本田美奈子負傷で伊東恵里が「ミス・サイゴン」に登場
伊東恵里は本田より4歳上、入絵より6歳上で、92年の時点ですでに4年間、劇団四季などでミュージカルの舞台を踏んでいた。主役も経験している。武蔵野音楽大学声楽科を卒業しているソプラノだ。「ミス・サイゴン」初演ではキムのアンダースタディ(代役)とアンサンブルで契約していた。
しかし、翌日からすぐにできるわけではない。5日間の練習を経て、7月8日に初めて舞台でキムを演じた。じつはこの日、筆者は帝国劇場で聴いている。声楽科出身のうえ、すでに舞台では主役を相当数こなしているので落ち着いて美しい声を聴かせてくれた。E(ミ)が最高音の「命をあげよう」を楽に歌っていた。
こうして、本田美奈子が復帰する7月31日まで、入絵キムと伊東キムのダブルキャストが続いたのである。したがって、東宝演劇部の記録には、当時の「ミス・サイゴン」キム役として3人の名前が記されている。
「『ミス・サイゴン』のオーディションのとき(1990年11月)のことです。歌い終わってドアの外へ出ると、通訳の方が追いかけてきて廊下でこう言うのです。『あなたはとても歌が良い。でも、ぜんぜんギラギラしていない。惜しい』と」(伊東恵里)
キムは悲劇的な最期を迎える。ベースとなった「蝶々夫人」と同じだ。つまり、筆者の推測だが、せっぱつまった悲劇性が求められていたのだろう。本田美奈子も入絵加奈子もキャリアの崖っぷちに立っていたことは連載第62回で書いたとおりだ。伊東の歌唱はあまりにも美しいのである。
「けっきょく、キャスティング・ディレクターから、アンダースタディとアンサンブルで1年半の契約を求められ、決定しました」(伊東恵里)