あれはゼイタクな取材だった。桂米朝と桂枝雀の双方に個別に時間を取ってもらって会ったのである。いまから、ほぼ30年前、『夕刊フジ』に連載した「ドキュメント 師弟」の時だった。師の米朝はもちろん、弟子の枝雀も存命だった。
私がこの師弟に話を聞いたのは1984年だが、それから15年後に自殺することになる枝雀は、1973年にも強度のウツ病にかかっている。それを“死ぬのがこわい病”と名づけた枝雀は高座にも上がれなかった。
その時、米朝は枝雀にこう言ったという。
「残念ながら、自分はそういう病気にかかった経験がないので、それについて何のアドバイスもできんのが悲しい」
この話を枝雀から聞いて、「枝雀さんはこう言ってましたが」と水を向けても、米朝は黙ったままだった。言葉にできないほど辛かったのだろう。
枝雀が亡くなった時、私は注意して見たが、米朝は何のコメントも出していない。
子供をハタき
家中のガラスを割る
枝雀が内弟子に入った頃、米朝の家には長男の下に、生まれて間もない双生児がいた。そのお守りをするのが枝雀の役目で、枝雀は彼らを乳母車に乗せ、落語のネタを繰りながら、よく散歩をした。しかし、ネタを繰っている間に、完全にその世界に没入していく。いつかは、地下鉄の駅を3つも通り越して、それから帰って来た。赤ん坊のおしめはズクズク。彼らは泣き疲れて声も出ない。
「信号はどうしたんや」と米朝が聞くと、「信号ねぇ」と枝雀も不思議な顔をしている。
今は教師になっているこの双子の1人、渉は、無意識のうちに枝雀に殴られて鼻血を出していたこともある。
乳母車を止めると、赤ん坊は泣く。落語のネタを繰って、その中の人間になりきっている枝雀は、うるさいからハタく。
かわいそうに赤ん坊はその血を鼻筋にこびりつかせて眠っていた。
「もう1人の透は、枝雀の後の内弟子の朝丸(現ざこば)に足を折られましたしねぇ。ウチの子供たちは災難ですわ」
淡々として米朝はこう言った。
米朝の長男、明は、朝丸に客にさせられて落語を聞かされ、とうとう落語家になってしまった。小米朝から現米団治である。