今週は、最近のニュースそのものを取り上げるのではなく、現在の経済を考える上で重要な論点を一つ提示してみたい。

 一昨年辺りから「格差」が大きな話題になり、「100年に一度の経済危機」という言葉が人口に膾炙するようになってからは「景気対策」が当然のことのように語られている。これに伴って、最近では、「小さな政府」路線を見直して「大きな政府」を目指すべきだという意見がしばしば語られるようになった。

 もちろん、議論があるのはいいことだ。それに、経済的な格差は確かに存在するし、マクロ経済的な環境整備(たとえばインフレ・デフレの調整)で政府が出来ることをやるのは必要だし悪いことではない。ただ、格差の是正や景気対策が、常に必ず「大きな政府」を意味するのではない、ということについて確認しておきたい。

 先日、社会保障基本法の制定を求める意見を持つ方が講師を勤めるセミナーを聴講してきた。引用の了解を取る時間がなかったので、講師のお名前は挙げないが、憲法25条が規定する国民の生存権を、社会保障基本法(案・仮称)に具体的に規定して、政府により明確な責任を持たせるべきだとの主張には賛同できた。たとえば、経済的な格差を放置しておいた場合、子弟の教育の格差を通じて、経済的な格差が世代を超えて再生産されるだろう。格差が拡大し固定化してゆく社会は楽しくない。

 「貧困」の線の引き方(4人家族世帯で年間460万円くらいの水準を最低限必要な収入とされていた。筆者は、少し大きいと思う)など、幾つかの点に議論の余地があると思ったが、政府による所得の再配分を含む福祉的な政策の必要性には納得した。

 たとえば、OECD諸国と比較した場合、日本は税と社会保障による貧困率の削減割合が非常に小さい(特に勤労年齢人口にあって)。所得の再配分という意味では、日本は極めて「優しくない国」なのだ。「セーフティー・ネット」という単語は頻繁に口に上るのだが、これが一体どこにあるのかが見えにくい。景気が悪化したときなどに、思いついたように多少の対策が取られることがあるが、どういう状態になると何をして貰えるかがあらかじめ分かっていてこそ、安心して生活出来るし、リスクを取ることも出来る。まして、いよいよ最後の生活保護の段階で、「水際作戦」の下に、申請がはねつけられることがしばしばあるのだから安心などできない。