「逃げてるわけじゃないんだけどな…」

 亜紀は女子トイレの鏡に映った自分を眺めて、ため息をついた。目の下の、このところ消えない隈を見ると、涙がこみ上げてきた。頭の中で、上司の「責任から逃げたらダメだよ。リーダーになりたくないなんて言ってないで」という声がリフレインする。

「もう、辛いな…。ほんと、逃げちゃいたい…」

 これが去年なら、残業仲間を誘ってワインでも飲みに行ったところだ。行きつけのワインバーで、愚痴を言い合いながらグラスを傾ければ、少しは気も晴れる。でも、今の亜紀は愚痴を言う仲間もいなかった。「お先に失礼します!」後輩の声に、亜紀はとっさに笑顔を作った。「終わったの、がんばったね!お疲れ様」。後輩の姿が消えると、亜紀は鏡の中のいっそう疲れた自分を見つめた。

能力ある女性が昇進したがらない深い事情「辛いな…逃げちゃいたい…」。一生懸命働く女性なら一度は思ったことがあるはず
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 亜紀は営業部業務課に勤めて10年目。サブリーダーに抜擢され、「女性リーダー候補」として人事部が立ちあげた会議に出席するようにと言われたのは去年の4月だった。会社には職種による区別はないが、業務課に配属される女性たちは暗黙の了解で、営業ノルマを持たない事務担当となり引っ越しを伴う転勤はなかった。事務と言っても単純作業は派遣社員が担い、亜紀たちの仕事は顧客対応や営業支援、イレギュラーな案件への対処、様々な書類の作成、そして派遣社員の監督など、多岐に渡る。自分たちの担当業務で忙しくとも、営業に頼まれたらたいていのことは引き受けるよう求められている。

 同期の女子の3割は3年目までに辞め、残りの多くが結婚や出産を機に退職したり、もっと楽な職場に転職したりで、勤続10年の亜紀は数少ないベテランだ。忙しくても、自分の成果が目に見えて、営業からは「亜紀ちゃんは何でもニコニコ引き受けてくれて助かる」、「丁寧なのに仕事早くて、亜紀ちゃんに頼めば安心」、「お客様も女性が笑顔で迎えてくれると喜ぶ」と感謝される今の仕事が、亜紀は好きだった。

 人と話したりサポートしたりするのが好きな自分に向いていると思っていたし、上司からも「部門の方針をよく理解してすぐ実行できる」と評価されてきた。後輩を育成し、新しい業務を立ち上げ、課の代表選手として働いてもきた。その傍ら、仕事だけが命の“お局様”にはなりたくなくて、業務を効率化して早めに帰り、自分磨きもしてきた。後輩たちには「亜紀さんみたいな素敵な先輩を見習いたい」と言われて、それも成功していると思っていた。

 だが、サブリーダーになり、「リーダー候補」と言われ、仲間だったメンバーとの面談を任されてからは、勝手が違った。今までは互いに言い合っていた愚痴が、「リーダー」の自分への要望として突きつけられるようになったのだ。営業からの雑用の押し付けをやめさせてほしい、イレギュラー処理は断れないのか、等々。メンバーの気持ちもよくわかるが、営業の状況もわかる。自分だったら、引き受ける代わりに効率化を提案しただろう。でも、まだ慣れていないメンバーにはできないかもしれない。「効率化すればいい」なんて言ったら怒ってしまうだろうな…。迷っていると「リーダーの亜紀さんが、方針を決めて、営業に交渉してきてください」と頼まれてしまった。

 上司に相談したが、自分で決めるようにと言うだけだった。困った亜紀は、つい「サブリーダーは私には無理なんです」と言ってしまった。上司の「もうベテランなんだから、責任から逃げたらダメだよ。リーダーになりたくないなんて言ってないで、もっと皆にはっきり指示を出さなくちゃ」という返事は、亜紀に重くのしかかった。