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めちゃくちゃわかるよ経済学 シュンペーターの冒険編

シュンペーターを財務大臣に推した
旧友バウアーの民族独立構想

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第40回】 2009年4月15日
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 1919年3月15日、シュンペーターはオーストリア共和国政府に指名され、財務大臣(※注1)に就任した。ウィーン大学ゼミの旧友、オーストリア社会民主党の指導者にして外務大臣オットー・バウアーとドイツ独立社会民主党のルドルフ・ヒルファーディンクによる推薦だったという。36歳だった。グラーツ大学教授の籍はそのままである。

 ゼミ仲間の履歴を紹介しながら第1次大戦後のシュンペーターの航跡を追ってきた。今回は紹介すべき最後のゼミ生、オットー・バウアー(1881-1938)の1919年までの動向からはじめよう。

シュンペーターを推した
バウアーとは?

 バウアーの履歴については、ユリウス・ブラウンタールによる評伝『社会主義への第三の道』(※注2)を参照した。他にもいくつかバイオグラフィーを載せている書物があるが、どれも本書を参照していると思われる。ブラウンタールは通常の評伝のスタイルではなく、記述の時間軸を前後させている。以下、筆者なりに時間を整理して経歴を紹介したい。

 バウアーはウィーンでユダヤ人家庭に生まれた。祖父母はボヘミア(現在のチェコ西部)出身だったらしい。父親はボヘミアで繊維工場を創立した実業家で、自宅はウィーンだが、事業所はボヘミアに何か所かあったという。シュンペーターの生家がモラヴィアの繊維工場だったことを思い出す。どちらもドイツ産業革命を経たチェコのドイツ系ブルジョアである。

 父親の病気療養と事業経営のため、初中等教育(ギムナジウム)はウィーン、メラン(南チロル=現在はイタリアのメラーノMerano)、ライヘンベルク(現在はチェコ北部リベレツLiberec)と転じていった。いずれもドイツ語系のギムナジウムであろう。

 1906年に博士号を取得、とブラウンタールは書いているので、1901年にウィーン大学法-国家学部に入学したものと思われる。シュンペーターと同期だ。途中(1902-03年)、帝国陸軍第75連隊で兵役についている。1年間の志願兵だったそうで、第1次大戦時にはすぐに予備役少尉として召集されることになる。大学卒業はシュンペーターより1年あとである。

 ギムナジウムやウィーン大学でマルクスの『共産党宣言』(1848)『資本論』(第1部1867)『反デューリング論』(1878)を読み始め、仲間を集めて勉強していた。1904年には「ノイエ・ツァイト」(ドイツ社会民主党の理論誌)に投稿し、初めての論文「マルクスの経済恐慌論」が掲載されている。

 そして翌1905年夏学期に、シュンペーターらとともにベーム=バヴェルクのゼミでマルクス経済学をめぐる議論に参加したわけだ。

 ブラウンタールによれば、「彼はギムナジウムのときにすでに社会民主党のために尽くす」と決めていたらしい。大学生バウアーが参加していたウィーンの思想研究グループの一人にヴィクトル・アドラー(1852-1918)がいた。バウアーの父親の世代だ。オーストリア社会民主党を1888年に立ち上げた1人である。

 アドラーはバウアーが大学を卒業すると、1年間の司法修習期間を待ってすぐにオーストリア社会民主党書記局にポストを与えた。1907年秋のことである。

 同じ時期に、初の大著『多民族問題と社会民主主義』(Die Nationalitatenfrage und die Socialdemokratie 1907 ※注3)を出版した。シュンペーターの処女出版は1908年の『理論経済学の本質と主要内容』だから、シュンペーターより1年早い。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


めちゃくちゃわかるよ経済学 シュンペーターの冒険編

「経済成長の起動力は企業家によるイノベーションにある」とする独創的な理論を構築したシュンペーターの発想の冒険行を、100年前のウィーンから辿る知の旅行記。

「めちゃくちゃわかるよ経済学 シュンペーターの冒険編」

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