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中国人の私がなぜ日本語通訳を志したのか

中国指導者の通訳が明かす日中国交正常化交渉「秘話」(上)

原 英次郎 [週刊ダイヤモンド論説委員]
2015年7月28日
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周斌(しゅう・ひん)氏は1958年に北京大学を卒業後、中国外交部(外務省)に入り、以来長期にわたって、中国の指導者たちの日本語通訳を務めてきた。先ごろ『私は中国の指導者の通訳だった――中国外交 最後の証言』を上梓。出版を記念して行われた日中関係学会での講演は、日中外交史を知るうえで貴重なエピソードに満ちている。講演の要旨を上下2回に分けてお送りする。第1回のテーマは、日中戦争の傷冷めやらぬ時代に、周氏がなぜ日本語通訳になったか。(構成:週刊ダイヤモンド論説委員 原 英次郎)

母を戦争で亡くす

周斌(しゅう・ひん)
1934年江蘇省生まれ。58年北京大学東方言語文学学部日本語専攻コース卒業後、中国外交部(外務省)に入り、日本語通訳として勤務。84年人民日報社国際部で記者業務。87年中国光大集団香港総部、92年香港*(日冠に辰)興集団高級顧問を務め2004年に退職。

――周斌氏は1934年生まれ。31年には満州事変が起こり、37年には盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まった。周氏の幼少時代は、日本の侵略が引き起こした戦争の時代だった。

 実は私は戦争孤児でございます。37年12月に日本軍による南京虐殺事件が起こりました。私の父は南京でトラックの運転手をしていました。母は農民です。母の話ですと爆撃によって南京で死んだと聞かされました。一家にとっては大変な悲しみでした。それから半年も経たないうちに日本軍が我が故郷、江蘇省南通県川港鎮――南京に近い町ですが――にやってきて占領しまた。さらに半年も経たないうちに、母が戦争の被害者となってこの世を去りました。

 まだ4歳にも満たない私と7歳にもならない姉が残されました。祖母と叔父の助けで何とか生き延びたのですが、私の記憶ではお腹いっぱい食べたことも、新しい服を着た覚えもありません。冬は寒さに震え、夏は満身創痍です。衛生状態悪かったから。

 ところが幸いなことに、45年、日本軍が負けて無条件降した直後に父が戻って来た。昆明(雲南省の省都)まで逃げたそうです。8年ぶりにお父さんと再会することができました。父は再婚して新しいお母さんができました。幸いそのお母さんは「私を温かく向かえ、温かく私を育てくれました。新しい母は紡績工場の労働者の出身。当時の中国で、最も下の層です。父も母も字を読めませんでした。生活は苦しかった。

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原 英次郎 [週刊ダイヤモンド論説委員]

1956年生まれ、佐賀県出身。慶應義塾大学経済学部卒。
1981年東洋経済新報社に入社。金融、証券、エレクトロニクスなどを担当。
1995年『月刊金融ビジネス』、2003年4月『東洋経済オンライン』、
2004年4月『会社四季報』、2005年4月『週刊東洋経済』の各編集長などを経て、2006年同社を退社。
2010年3月ダイヤモンド・オンライン客員論説委員、2011年10月編集長、2015年1月より現職。
主な著書に『銀行が変わる?!』(こう書房)、『素人のための決算書読解術』(東洋経済新報社)。

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