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モビリティ羅針盤~クルマ業界を俯瞰せよ 佃義夫

完全復活の光は見えるか?
三菱自動車、米国生産撤退の「次の矢」

佃 義夫 [佃モビリティ総研代表]
【第10回】 2015年7月31日
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米国生産からの撤退を発表
三菱自動車はどこに向かう?

米国生産撤退を記者会見で表明した三菱自動車工業の相川哲郎社長。グローバル生産の集中と選択の方向を強調した Photo:REUTERS/AFLO

 三菱自動車が米国生産からの撤退を発表した。

 7月27日、三菱自動車工業の相川哲郎社長が記者会見し、米国の子会社であるミツビシ・モーターズ・ノース・アメリカ・インク(MMNA/本社:米国カリフォルニア州サイプレス市、工場:イリノイ州ブルーミントン・ノーマル市)が生産・販売を行う「アウトランダースポーツ(日本名:RVR)」を、2015年11月末をもって生産終了し、今後、同モデルの主力生産拠点である日本の岡崎工場に集約すると発表した。

 相川社長は、米国工場の生産撤退について「集中と選択の一環で、米国工場が年間5万台を切る見通しから、この生産規模では工場維持は困難と決断した」とその理由を説明した。また、「三菱自動車は現在、アセアンに工場の能力増強や新設を進めており、生産拠点をアセアンに集中し、今後は日本・アセアン・ロシアが生産の中心になっていく」と、グローバル生産の集中と選択の方向を強調した。

 これにより、三菱自動車の米国での生産は、1988年に当時の提携先であったクライスラーとの合弁工場で生産を開始してから27年を数える歴史に、終止符を打つことになった。もっとも三菱自動車の米国工場は、最近の生産規模から見て「撤退は時間の問題」とされていただけに、今回の撤退決断の次に三菱自動車がどこに向かうのか、注目されることになる。

 三菱自動車と言えば、その社名のとおり、かつての三菱財閥・スリーダイヤグループ企業であり、海外からも「日本の代表企業グループ三菱」の自動車企業として、名声が高かった。しかし、三菱における自動車の歴史は古いものの、現在の「三菱自動車工業」が誕生したのは、三菱重工業の自動車事業部門から独立した1970年のことである。

 それでも三菱自動車は、軽自動車から大型トラックまで、乗用車と商用車の商品群を持つ世界にも類を見ない総合自動車メーカーとして発展し、独自の地位を築いた。だが、その栄枯盛衰は激しかった。特にここ10年間は、三菱重工業、三菱商事、三菱東京UFJ銀行といった三菱グループの主力企業による支援で再建・再生の道を歩み、ようやく負の遺産を解消したばかりである。

 足もとの状況は、まさに「再生三菱自動車」が、米国生産撤退を皮切りに、新たな方向づくりに着手したタイミングと言えよう。

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佃 義夫[佃モビリティ総研代表]

つくだ・よしお/1970年、創刊86周年(2014年2月時点)の歴史を持つ自動車産業日刊専門紙『日刊自動車新聞社』入社、編集局に配属。自動車販売(新車・中古車)・整備担当を皮切りに、部品・物流分野を広域において担当した後、国土交通省・経済産業省など管轄官庁記者クラブ、経団連記者クラブ(自工会分室)と、自動車産業を総合的に網羅し、専任担当記者としてのキャリアを積む。その後、該当編集局内における各分野のデスク・論説担当編集局次長を経て、出版局長として自動車産業オピニオン誌『Mobi21』を創刊。以降、取締役編集局長・常務・専務・代表取締役社長を歴任。45年間の社歴全域で編集・出版全体を担当、同社の「主筆」も務める。日刊自動車新聞社を退任後、2014年に「佃モビリティ総研」を立ち上げ、同総研代表となる。


モビリティ羅針盤~クルマ業界を俯瞰せよ 佃義夫

「自動車」から「モビリティ」の時代へ――。クルマ業界が変貌を遂げつつあるなか、しのぎを削る自動車各社。足もとで好調を続けるクルマ業界の将来性と課題とは、何だろうか。日本の自動車産業・クルマ社会をウオッチしてきた佃義夫が、これまでの経験を踏まえ、業界の今後の方向・日本のクルマ社会の行方・文化のありかたなどについて、幅広く掘り下げ提言していく。

「モビリティ羅針盤~クルマ業界を俯瞰せよ 佃義夫」

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