「幸せ食堂」繁盛記
【第二十六回】 2016年4月22日 野地秩嘉

神田・淡路町で、今や希少価値となりつつある
庶民のための「天ぷら専門店」の心意気に出会う

消えゆく“町の天ぷら屋”

 神田淡路町「天兵」は庶民のための天ぷら専門店だ。若主人、33歳の井上恭兵は言う。

「私は知りませんけれど、昔、この辺(神田界隈)にはてんぷら屋はたくさんあったらしいんです。職人が暮らす町だから寿司、そば、天ぷらの店は何軒もあった。いまはうちと、そうですね、八ツ手屋さんしか残ってません」

 彼の言うように、庶民が行く町の寿司屋、町のそば屋は残っている。しかし、町の天ぷら屋はなくなりつつある。天然記念物みたいなものになってしまった。

「高級天ぷらと天丼チェーン以外は生き残るのは難しいでしょう」

 井上はそうつぶやいた。

 町の天ぷら屋がやっていけない大きな理由は材料の高騰だ。天丼チェーンのように冷凍ものを使えば、それなりの価格で出すことができる。しかし、新鮮な魚介にこだわると、一杯の天丼が、かなりの値段になってしまう。

 たとえば天兵の天丼は1250円だ。天丼チェーンのそれよりも高い。しかし、天タネは天然海老が2本、魚(キス、穴子など)が2種、野菜が2種である。赤だしとおしんこもつく。ご飯は魚沼産コシヒカリ。ご飯の大盛りはサービスだ。

 天兵の場合は自宅兼店舗だから、この程度の値段で天丼を出すことができる。それでも儲けは大したことはない。850円でサービスの天丼弁当を出しているが、「弁当の儲けは1個当たり10円」とのこと。

「うちは庶民のための天ぷら専門店ですから、できるかぎりやりくりして頑張ります」

 天兵は家族と親戚だけでやっている。人件費も少ない。

 ひるがえって、考えてみると、正真正銘の「おいしくて安い店」とは、主人が店舗の上に住んでいて、しかも家族だけでやっている店と言えるのではないか。

この連載記事のバックナンバー
トップページへ戻る

野地秩嘉 1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。出版社勤務、美術プロデューサーなど を経て、ノンフィクション作家に。食や美術、海外文化の評論、人物ルポルタージュ など幅広く執筆。近著に、「TOKYOオリンピック物語」「イベリコ豚を買いに」「打 ち合わせの天才」「アジア古寺巡礼」「アジアで働く いまはその時だ」など。


「幸せ食堂」繁盛記

この連載は、味がよく、サービスも悪くなく、値段はリーズナブルで、しかも、できればハイサワーやホッピーを置いている店のグルメガイドだ。ここで紹介される店は、金持ちの社長やグルメ評論家はまずいない。著者は、そういう店を「勤労食堂」「国民酒場」と呼ぶ。そこでは客が微笑しながら食べている。ほほえみながら食べている人と一緒にいることは至福だ。人生の幸せは勤労食堂もしくは国民酒場にある。

「「幸せ食堂」繁盛記」

⇒バックナンバー一覧