「世界の変化」のスピードに対応する

 教育の世界でも同じことが言えそうだった。学校現場で話を聞くと、先生方には、この問題に対する純粋な興味をひしひしと感じた。生徒が良い質問を自分で考え、それをぶつけられるようになることがいかに重要か、多くの先生がわかっていた。

 このスキルを身につけておけば、子どもたちが将来、いまよりも複雑な状況に出合ったときや、世界の変化のスピードが速くなったときにいっそう役に立つと考えている先生もいた。

 ところが、質問の技術を教えている学校はなぜかほとんどなかった。どこの学校でも、覚えたことを正確に答えてほめられることはあっても、質問をしてほめられることはまずない。

 貧困や飢餓、水の供給といった世界的に深刻な問題に取り組む社会起業家と話してみても、こうした問題について正しく問うことの重要性をわかっているイノベーターはわずかしかいなかった。

 旧式で決まり切った方法やアプローチが幅を利かせているのだ。非営利組織では、一般企業の大半と同じく、これまでにやってきたことをそのまま続ける傾向がある。だから善意の人たちが誤った問いに答えて問題解決を図ろうとすることが多いのだ。

 しかし考えてみると、私たちはだれでも日常生活の中でこれと同じような考え方や行動をしているのかもしれない。とにもかくにも昔からのやり方や考え方を強引に推し進めがちで、一歩下がって自分が本当に正しい道を歩んでいるのかを自問することなどまずない。

 人生の意義や達成感、あるいは幸福感とは何か、といった重大な疑問については、世の中には専門家や権威から与えられた助言やヒント、戦略などがあふれている。しかし、そうした一般的な解決法では納得のいく答えが得られないとしても不思議ではない。自分なりの答えを得るには、自分自身で疑問を抱き、それを解決しようと努力しなければならないのだ。

 しかし、そうするための時間や忍耐力を持った人などいるだろうか?

 企業のエグゼクティブや学校の先生たちと同様、私たちもある程度は疑問や質問が重要で、問うこと(とくに考えるきっかけとなるような、意味のある問い)にもっと注意を払うべきだということを認識しなければならない。偉大な思想家たちは、ソクラテスの時代からこのことを言い続けてきたし、詩人は昔からこの主題についての詩を詠んできた。

 E・E・カミングスは、「美しい答えを得られるのは、いつも美しい質問のできる人」と書いた。ピカソやチャック・クロース〔写真を用いて対象を克明に描写するスーパーリアリズムの旗手〕など、多くの現代のアーティストたちも、疑問や質問の持つ神秘的な力について語っている。

 科学者たちも疑問や質問の重要性を声高に訴えてきた。なかでも雄弁なのはアインシュタインだろう。アインシュタインは、コンパスがなぜ北を向いているかを不思議に思った4歳のときから鋭い問いを発し続け、その人生を通じて、好奇心こそが「神聖なもの」と考えていた。そして、じつにさまざまなことに疑問を抱いたが、どの疑問の解決に取り組むかの選択には慎重に構えていた。

 アインシュタインの名言とされているものの一つに(これを本人が本当に言ったかどうかは別として)、こんなものがある。

「もし私がある問題を解決するのに1時間を与えられ、しかもそれが解けるか解けないかで人生が変わるような大問題だとすると、そのうちの55分は自分が正しい問いに答えようとしているのかどうかを確認することに費やすだろう」