『週刊ダイヤモンド』12月17日号の第1特集は「労基署が狙う」。長時間労働の是正が声高に叫ばれる中、労働基準監督署(労基署)がその実現に向けて本腰を入れ始めた結果、ビジネスモデルの転換を迫られる企業が出てきました。さらに残業減少による年収減を危惧する声も聞こえてきます。日本人の働き方や残業代はどうなるのか。労基署が新たに狙いを定めた企業、業界で起こっている地殻変動からその深層に迫りました。

 証券業界最大手の野村證券に労基署のメスが入り、長時間労働が常態化していた投資銀行部門が大幅な残業削減を含む働き方改革を迫られていたことが、本誌の調べで分かった。

残業は厳しく制限され ビジネスモデルを大転換

 野村證券の投資銀行部門に勤務する中堅社員は悩んでいた。

「平日はだいたい午後6時から遅くても8時には退社しなければいけなくなった。このままでは、うちのビジネスが成り立たなくなってしまう」

 一見、ワーク・ライフ・バランスが取れたいい会社のように思えるが、どうしてここまで強い危機意識を持っているのか。

 この中堅社員によれば、今年の夏ごろに野村に労基署のメスが入り、投資銀行部門の長時間労働が問題化したため、それまでとは一転、残業が厳しく制限されるようになったという。

 残業の大幅削減でビジネスモデルの転換を迫られているのは、広告代理店最大手の電通だけではないのだ。

「一カ月45時間までしか残業できない上、外部からリモートログインしている時間もチェックされる」と野村関係者は明かす。深夜残業が当たり前だった野村の投資銀行部門においては、事実上の「残業禁止令」といえた。

 そもそも投資銀行部門とは、M&A(企業の合併・買収)のアドバイザリー業務や資金調達(株式・債券の発行)に関する引き受け業務など、機関投資家向けの証券業務を担う花形部門である。

「各社とも激務で知られ、夜中の2時、3時までプレゼン資料作りに追われるのは当たり前。バリバリ働きたい知的肉食系が集まる」(外資系証券幹部)

 そんな長時間労働が大前提の職場で残業ができないとなれば、ビジネスに影響が出るのは必至だ。

 グローバルに展開している野村のライバルは、残業規制などお構いなしの海外の大手金融機関であり、1人当たり労働投入量で劣る野村の競争力低下は避けられない。

 だからこそ、冒頭の中堅社員はビジネスモデルの崩壊リスクを意識するまでの危機感を抱いたのだろう。

 野村社内からは、「海外出張させて日本の労働基準法の枠外で仕事をさせている」「自習室を設定して、そこで〝自主的に〟プレゼン資料作りをさせている」など、残業減少分を補完するための〝裏残業〟に関する話題も漏れ聞こえてくる。

 だが、投資銀行の世界はそんな抜け道を使って対応できるほど甘くはない。会社側もその点は十分理解していたようだ。

 本誌取材によると、野村は問題発覚後、大規模な人事異動に踏み切り、投資銀行部門の中でもM&A部門の人員を増強。今年3月末と比較して人員を20%も急増させているのだ。異動の規模からは、会社側の危機意識の高さがうかがえた。

 さらに、案件獲得の生命線となる資料作成については、海外子会社との連携を強化して生産性を向上させていく考えだ。

長時間残業に依存した 経営は淘汰の憂き目に

 証券業界のガリバーのビジネスの在り方を激変させた労基署のメス。もちろん労基署の長時間労働是正の取り組みに問題があるわけではない。日本ではこれまで長時間労働が横行していたわけで、是が非でも進めるべきだ。

 主要企業の多くも労基署の動きを歓迎しており、「長時間労働の是正は個人、会社のみならず、国を挙げて取り組むべき重要な課題」(飲料大手)など、支持する声が多い。

 ただ、社員の長時間残業を前提としたビジネスモデルを持つ日本企業は実のところ少なくなく、野村と同様に労基署のメスが入るリスクを抱えている。一方、長時間労働撲滅に向けた労基署の動きは一過性のものではなく、政府の「働き方改革」推進という後押しもあって、むしろこれから本格化してくるはずだ。

 野村證券幹部が「嵐が過ぎ去るのを待てばいいというわけじゃない。本腰を入れて対応すべき」と指摘する通り、そうしたビジネスモデルからは一刻も早く脱却しなければ、淘汰の憂き目に遭うかもしれない。

 しかし、残業を減らせば競争力を維持できないのも事実。社員の働き方と企業の競争力のバランスをどう取るか。そのジレンマと向き合いながら生産性を高めていくしかない。