偏差値「無力化」時代の志望大学の選び方とは共通テストの模試受験票。12月ともなると、本番レベルでの実施となる

短期集中連載「2030年の大学入試」。3回目は、「偏差値」について考えてみたい。合格と不合格の境を示す「偏差値」は、いまの親世代にとって、志望校選びに欠かせなかった。ところが、年内合格を勝ち取った受験生が受験戦線から撤退し、一般選抜での実質倍率が大学によっては1倍に近づいたりする中で、「偏差値」の持つ意味合いが変容している。正しい「偏差値」との向き合い方を考えてみよう。(ダイヤモンド社教育情報)

大学の大衆化と「偏差値」の登場

 戦後20年間、ベビーブーマーである団塊の世代が大学受験に加わるまで、大学に進学する高校生は同世代の1割程度に過ぎず、大学に送り出す役割は、主として公立高校中心の伝統的な進学校に委ねられていた。当時はいまほど「進学校」と目される高校も多くはなく、校内の成績順位がそのまま大学学部の合格判定につながるような、ある意味、牧歌的な時代でもあった。

 特に同じ地域にある国立大の合格者については、ほぼ数読みができた。学年何番までにいれば東京大に行けるとか、何番だったら東京工業大だといった状況で、受験競争とは校内での順位争いでもあった。それゆえに、どこの進学校に入るかが当時の中学生にとって最大の関心事だった。

 戦後の学制改革により、1949年から国立大は一期校(3月上旬)と二期校(3月下旬)に分けて入試が実施されていた。受験生の首都・有名校偏重を避ける意図があったとはいえ、実質的に二期校は滑り止めとなり、大学間序列が歴然となっていく。この仕組みは78年まで30年間続いた。この間、東京の公立校の教員により「偏差値」の活用が考案されている。

 65年の入試あたりから、団塊の世代が大学受験に加わることで、大学の大衆化が進む。こうした大学入試の実態を受け、新たな入試制度が導入されることになる。この頃、高校間格差是正を目途に各地で導入された学校群や学区制は、高校の序列にも影響を及ぼす。東京で、私立の開成が都立の日比谷などの座を奪い、いまに続く「東大合格者数日本一」の契機ともなった。

 加熱する受験戦争はマスコミの格好の批判対象となり、その結果、大学入試制度の改革が行われた。79年度から導入された「国・公立大学共通入試選抜第一次学力試験」(共通一次)である。共通一次の登場により、大学入試への対応が全国化する。教育産業の情報化が進み、「偏差値」が大学受験の前面に飛び出てくることになった。

 60年代後半、団塊の世代で大学に進学するのは6人に1人程度だった。一期校・二期校の時代には、偏差値は旺文社が行う模試で示されていたものの、根拠が薄弱なお手盛り感のあるものだと見なされ、80年代には急速に影響力を失っていった。

 代わって、共通一次導入を契機に浮上してきたのが、全国進学情報センターを設けて地方の予備校を系列下に置き、東京にも進出した名古屋の河合塾である。河合塾の動きに対抗するかのように、東京からは代々木ゼミナールが名古屋に校舎を置くなど、それ以降、全国の主要都市で“予備校戦争”が起き、大手予備校の全国化が大きく進んでいく。