若くして東映に入った松方弘樹は、時代劇や現代劇を問わず、さまざまな映画に出演しているのですが、なかなか代表作に恵まれない不遇な時期が続きました。さらに、東映は、“東映城の暴れん坊”と宣伝した松方弘樹ではなく、ライバル関係にあった“東映城のプリンス”こと北大路欣也(43年生まれ)の売り出しに注力します。どちらも同じ東映の二世俳優ですが、北大路欣也は父親が時代劇の大スターで東映の役員も兼ねていた市川右太衛門だったことから、松方弘樹は辛酸を舐めさせられます。

 しかも、他の映画会社から待田京介(36年生まれ)や、菅原文太(33年生まれ)といった準主役クラスの俳優が東映に移籍してきます。そうなると、42年生まれの松方弘樹は、映画俳優としての芸歴は自分の方が長く、時代劇できちんと経験を積んできたにもかかわらず、彼らに良い役柄を取られてしまいます。松方弘樹は、当時まだ20代です。30代の待田京介や菅原文太と比べてしまうと、「貫目が足りない」(役柄に対して若過ぎる)ということになり、結果的に4~5番手の役柄が多くなりました。

 この状況を企業社会で例えれば、専務のコネで入社した将来の幹部候補生(松方弘樹)でしたが、会社が合併を繰り返したことにより、相対的に専務の影響力が低下してしまいます。そこに、社外から、松方弘樹よりも年上の幹部候補生(待田京介や菅原文太)が転職してきます。新会社の社長は、待田京介や菅原文太を重用したことから、いつの間にか松方弘樹は傍流へと押しやられてしまいます。立場の固定化が進んだことにより、上には進めなくなってしまった状態と同じと考えてよいでしょう。

 そして、松方弘樹は、東映で思うような活躍ができないまま、約2年間(69~71年)、潰れかけていた大映にレンタル移籍させられます。当時、京都撮影所長だった岡田茂(後に社長)から「向こうでてっぺんを取ればよいではないか」と言い含められて、です。坊ちゃん育ちで素直な松方弘樹は、そのまま従います。普通なら、そこでやる気をなくしてテレビの世界(東京や大阪)に転じてしまってもおかしくないと思うのですが、松方弘樹はあくまで映画の世界(京都)にとどまりました。すでに時代劇というインフラ(製作のシステム)が崩壊しつつある中でも、彼は役者として終わらなかったのです。