コロナが暴いた大学の授業の意味
団塊の世代から団塊ジュニアの世代にとって、大学の教室というと、特に文系学部では階段教室をイメージするでしょう。机と椅子がセットになった固定机が並び、中程の席に座ると通路に出るのに苦労します。
一昔前ならば、有線LANと電源が一緒になった「情報コンセント」が付いていることもありました。1人当たりに与えられた机上面積は小学校よりも狭いです。ノートと教科書すら載らないほどで、そりゃ大学生は指定された教科書を買わないよなぁと思うほどです。
これで勉強しろというのも酷な話であり、教室に定員の学生を詰め込むことは元来無理なのです。感染拡大が収まって対面授業が再開されても、こうした大教室には定員の半分程度しか詰め込めないでしょう。
コロナ以前、定員目いっぱい詰め込んでいたような講座はいまどうなっているのでしょうか。たぶん、いまだに対面授業は実施されず、リモート授業なのだと思います。そうしないとこれまでの受講システムが破綻してしまうからです。
しかし、一方通行なリモート授業であれば、録画したものをネット経由で流せば済みます。教室の制約もないのだから、そもそも定員自体が無意味になります。
大学にも通信制があります。単位認定は、課題図書を読んでそれに関するレポートを書くことで行われるものが多いですが、対面授業のスクーリングも求められます。放送大学も同様で、教科書と放送を見てレポートを書き、スクーリングに参加すれば単位が取得できます。
通信制であっても通学制であっても学士課程の単位も学位も同等です。ただ、通信制の学費の方がおおむね安いです。翻って、コロナ禍のリモート授業ですが、一方通行的な授業であれば、放送大学との差異はどこにあるのでしょうか。
文部科学省が今回のコロナ禍において大学のリモート授業に同時性・双方向性を求めたことはよく理解できます。ただそうしたときに、普段の対面授業はどうなのかが問われることになります。一方的に知識を伝達するだけの授業であれば、家でポテトチップを食べながら2倍速で授業の動画を見ていた方が学生にとっては気楽に取り組めますから。それで大学側は良しとするのでしょうか。