法は個人の権利を調整する「知恵の集積」

 3人の意見は、Bくん、Cさんの「校則を変えたい」、Dくんの「変えるべきではない」という二つに分かれています。ところが、同じ「変えたい」派でも、BくんとCさんとでは、その切実さに温度差があるようです。 

   Bくんは、「個性が大事という世の中の風潮に、学校も合わせた方がよいのでは」という考えを述べました。Cさんは、「校則のせいで学校に行きたくない生徒がいる」「自分も髪形を変えて自信を持ちたい」と、友人や自身の自由が、校則によって過剰に制限されていると主張しています。

 現状の校則は、教育目標を達成するために、生徒の行動の自由を一定の範囲で制限する役割を担っています。こうしたイメージから、「ルールは上から一方的に押し付けられるもの」と考える人も多いかもしれません。社会生活における法も同様に、「損害賠償請求」や「刑事罰」という抑圧的なイメージが先行しがちです。しかし、それらはあくまで法の一側面にすぎません。

 本来、法は全ての個人が尊重されるために存在します。さまざまな背景や考えを持つ人々が共存する社会において、利害の衝突をできる限り避けるため、互いの権利・利益を調整する知恵の集積こそが法の本質です。

相手の心の内を軽視する言葉「すべき」

 したがって、Dくんが主張する「昔から変わっていない」「学校の評判が落ちる」という理由だけで、生徒会の他のメンバーが校則の変更を諦めてしまうのは早計です。「決まりは決まりだから、黙って従うべき」と、相手の事情を無視して他の生徒たちにルールを押し付けてしまうのも、法やルールの本来の目的から離れています。

 また、普段つい口にしてしまいがちな「すべき」という言葉(概念)は、「(あなたがどう思っているかはさておき)この規範に従いなさい」という意味合いを強く含みます。そこに相手の心の内(内心)に対する配慮はありません。

 どう思うか、どう感じるかといった個人の心の内は、「内心の自由」として憲法第19条などで保障されています。私たちは、どんなことを思い、何を感じていてもそれが内心にとどまる限りは“絶対的に自由”です。

 内心は、人の人格や尊厳の根幹だからです。そのため、個人の内心は、極めて高い価値を有すると考えられています。たとえネガティブな感情であったとしても、それは私たちの人格や尊厳を支える重要な要素の一つなのです。

「すべき」という概念は、使い方を誤ると、本来高い価値を有するはずの内心の軽視につながります。その概念を相手に向ければ相手の内心の軽視、自分自身に向ければ自分の内心の軽視となります。自分と相手のどちらも尊重したいのであれば、「双方の内心をまず尊重する」という姿勢は非常に重要です。