顕在化するGとLへの大学分化
一方で、学生の側も、高校までの英語の修得度にはばらつきがあるから、英語の修得をまだまだ必要とする学生のための大学はこれからも存在するだろう。それは構わないことだ。高校までの教育を事後的に補完する役割を担い、新しい知識や“スキル”を教える大学、アメリカのコミュニティーカレッジのような存在となる大学は必要となる。
地域の高等教育を下支えする存在のこうした大学によって、地域の教育環境は向上していく。それが地域の産業振興にも結び付いていくだろう。もちろん、入学者は高校新卒者に限らない。時代に合わせて必要となる“スキル”を学び直すことや転職のための“スキル”修得のために、社会に出た人たちが学ぶ場にもなる。これこそが生涯にわたって学び続ける生涯学習への道の核となる存在なのだ。
かつて、冨山和彦氏(現・経営共創基盤代表取締役CEO)が、大学は国際的に競い合うグローバル型(G)と地域に貢献するローカル型(L)に分化すると発言して、物議を醸したことがあった。ここでも「2:8の法則」が働き、多くの大学はLになるということから反発が広がったのだが、現状を見れば、そのように進んでいる。
それは大学の選抜機能が残るところと、そうでないところとの区分けでもある。少子化であっても、トップ大学には選抜機能が残り、競争が残る。むしろその競争は、少数精鋭のものとなり、より厳しくなるかもしれない。かつて大学進学率がそれほど高くないときの状況に戻ると考えると分かりやすいだろう。
「四当五落」などという言葉はいまや聞かれなくなったが、当時は睡眠を4時間以上取っていれば合格できない、寝ている暇があれば勉強しろと言われた時代だ。いまの日本では考えにくいだろうが、中国や韓国に目を移せば、いまだに受験競争は激しい。
競争を目的とした教育は学習者の疲弊を生む。これまで競争のために学習意欲を駆り立てられてきた面があるが、少子化の中でそもそもそうした競争は緩やかになっている。では、競争がなくなったのかといえば、世界を見渡せば歴然とした競争がある。競争は相対的な価値によって起きるものであり、そうした国際環境の中で生きるわれわれは、競争を免れることはできない。
競争に代わって学習意欲を駆り立てるための方法として注目されるのが「探究」である。いたずらに競争に駆り立てられるのではなく、もっと純粋に、自分が好きなことや興味を持ったこと、自分の課題意識などで、意欲的に取り組める題材を深掘りして学ぶことが「探究」の学習である。
「探究は勉強がデキる子どものためのものだ」と公然と語る教員がいるが、それは大きな勘違いである。主体的に学べる子どもであれば、「探究」的な学びはおのずとなされている。「探究」は、使役的に勉強させられている子どもたちを解放するものでもある。むしろ、勉強が苦手な子どもを救うものであると認識してもらいたい。