前編【立志編】では、「起業がタブーの家で育った」という衝撃的な「原体験」を明かしてくれた、テラモーターズ徳重徹氏。実家の反対を振り切ってシリコンバレーへと渡った徳重氏は、いかにして立ち直り、「アップル・サムスンを超える日本発メガベンチャー」を志してテラモーターズを起業するに至ったのでしょうか。
『一生を賭ける仕事の見つけ方』著者でベンチャー支援のプロフェッショナル、斎藤祐馬氏が、前回に引き続き、徳重さん自筆の「感情曲線」を元に語り合います!果たして、失敗を恐れずにチャレンジしつづける徳重氏のエネルギーや自信はどのようにしてつくられたのか?その秘密が明かされる特別対談【起業編】!

心砕ける失敗も、時間がたてば悔しさに変わり、
エネルギーに変わる

斎藤 お父様のしがらみを乗り越え、アメリカへ留学された後、どうなったんですか?

図1)徳重氏自筆の「感情曲線」。20代前後、30歳手前、40歳過ぎに大きなマイナスがある
<拡大画像を表示する>

徳重 そのあともまた大変で……。というのも、勤めていた会社からは社費でMBA行かせてあげるのに、と言われているなかで、僕、シリコンバレーに行ってベンチャーで成功するんでって啖呵を切って辞めるわけですよ。にもかかわらず、シリコンバレーでMBAが取れるスタンフォードとバークレーの両方落ちちゃって。だから、カッコ悪すぎるというか……。

 辛かったのが、結婚式の準備を身分不確定の状態でしないといけないことでした。もし全部落ちたら、本番を無職で迎えるかも、と。最終的には、サンダーバードというところに受かって、妻は大喜びしてくれたわけですが。

 でも、僕の心境としては、『ターミネーター2』で、液体金属のターミネーターが液体窒素で固まって、撃たれてバラバラになるシーンがあったと思うんですけど、あんな感じですよ。落ち込むなと言われても、僕ですら失敗して辛いときはある。

ただ、やっぱり人間って強いな、と思うんですけど、2ヵ月ぐらいすると、悔しさが出てくるんですよね。僕のテーマは、とにかくリベンジをするんだと。リベンジが意味するところは、シリコンバレーで仕事を得る、ということ。それが、自分に対してのリベンジだ、という気持ちでした。

斎藤 その強い気持ちは、どこから出てきたのでしょうか?

徳重 やっぱり、感情曲線でいうと、大きくマイナスになっているところがあるからこそ、でしょうね。もちろん、翌週から復活、とかそんなに簡単にはいきません。けれど、2ヵ月ぐらいやりつづけていると、やっぱり立ち直ってくるわけです、人間って。たぶん、誰しもそうだと思います。だから、そのマイナスを恐れるなっていうのは、言いたいです。(前編で語った通り)僕も、もともと強い人間ではないわけです。どっちらかというと繊細なほうで、だから傷つきやすいわけです。でも、いままでやれてきている。逆にそういう繊細な人ほど、感情の振れ幅が大きいから、そこで溜まるエネルギーも大きいんだと思います

「ベンチャーは、産業をつくれるんだ!」
自分の得意分野と社会がつながった瞬間

斎藤 MBAは2年で卒業しました?

徳重 徹(とくしげ・とおる)
テラモーターズ代表取締役
住友海上火災保険株式会社(現:三井住友海上火災保険株式会社)にて、商品企画等の仕事に従事。その後、米国ビジネス スクール(MBA)に留学し、シリコンバレーのインキュベーション企業の代表としてIT・技術ベンチャーのハンズオン支援を実行。事業の立上げ、企業再生に実績を残す。経済産業省「新たな成長型企業の創出に向けた意見交換会」メンバー。一般社団法人日本輸入モーターサイクル協会電動バイク部会理事。九大工学部卒

徳重 単位を取りまくって、1年で卒業しました。シリコンバレーでインターンしていたので、それを交渉して、全部単位にしてもらったりして。卒業して、シリコンバレーに半年くらいいて。その後、シリコンバレーでインキュべーションを始めました。

斎藤 それ、何年ぐらいやっていたんですか?

徳重 4年半か5年ぐらいですね。最後のほうは、たまたまなんですけど、会社の再生とかもやっていました。ただ、そこでも僕の1個大きなミッションという意味では発見があって。それは、個人のモチベーションだけだと力が弱い、ということなんですよね。

 稲盛さんの本を読んでても、最初は「稲盛の会社」だったといいます。それで、みんなが反発して、やがて「稲盛の社員の会社」に。それから、単に1つの会社だけではなく、社会といったもうちょっと大きなところに昇華されていくんですよ。そこまでいくのが重要で。つまり、個人の思いと社会のつながりです。世界にインパクトを出すには、このつながりが重要だったんです。でも、最初、僕の中でそういう感覚はありませんでした。

 僕自身は、べつに貧乏でもないし、金持ちになりたいっていうのは、そんなになかった。何か大きなことをやりたいとは思っていましたが、当時の感覚だと、ベンチャーと言えば「山師」なんですよ、本当に。もう、アウトサイダーがやるのがベンチャーみたいな。

斎藤 2000年ぐらいですか?

徳重 もうちょっと前かな。そんな僕の中で、社会性が出てきたのは、当時30そこそこの僕に、経産省とか自治体の偉い人が来て、「産業をどうつくるんですか」と聞いてきたことがきっかけなんですよ。真逆じゃないですか。山師と産業をつくるって。

 でも、言われてみると、そうだなと納得したんです。当時、目の前がグーグルのオフィスだったんですけど、そこには優秀な人がどんどん集まって、雇用を生んで、国を牽引するような会社になっていました。たしかに、産業になってるな、と。

 つまり僕が得意で、好きなことでもあるベンチャーは、社会からも評価されることなんだっていうふうに、僕の中では腹落ちしたんです。一方で、日本ではそう思われてないのは、やはりグーグルのような、誰が見ても尊敬の念を抱く、そんな会社が日本にないからなんじゃないか、とも思いました。

斎藤 一気にベンチャーと社会がつながった。

徳重 もともと大きいことを考えるのが好きだから、日本全体どうあるべきか、みたいなことはずっと考えていたんです。それで今も僕が言っている、日本発メガベンチャーというキーワードが生まれたんです。なにせ、MBAのときのメールアドレスが、「megaventure@aol.com」でしたから(笑)。

 ただ、そこに社会性というか、つながりが生まれたのは、経産省や自治体の人との話がきっかけです。そのとき、これを僕がやるべきだな、と思って。起業家でありながら、日本全体のことをなんとかしなければと考えていて、しかもシリコンバレー、今はアジア各国でやりつづけている、そういう人はほとんどいないんですよ。だから、それが、僕がやるべきこと、自分の「ミッション」だと思っています

斎藤 だんだん使命感も出てきたんですね。

徳重 そういうことですね。だから、その思考の骨格っていうのは、本当に変わってないんですよね。