「弱いことがいいこと、っていうのはどういうことなの?」

「そうだな、ではその説明をしよう、しばし待たれよ」

 そう言うと、ニーチェは背負っていたリュックをごそごそとさぐりだし、一冊のノートを出した。

「弱いことがよいこと、というのはどういうことか、ここに一覧にしてあるから参考にするといいぞ」

 ニーチェから渡されたノートのページには単語がいくつか並んでいた。

 なになに……

『臆病な卑劣さ→謙虚』
『仕返ししない無力さ→善い』
『弱者のことなかれ主義→忍耐』

 なるほど、言葉のあやみたいなものか。というか結婚式のスピーチにあるような便利な言い回し、ということのようだ。

「新郎は死ぬほどネガティブな暗い性格で、学生時代から友達もネット上にしかおらず……」なんて言えないもんな。

「新郎は、思慮深く、いつも冷静で、自立した性格の持ち主で」といったような言いかえに近いのか。私はノートを返し、

「これって結婚式の言い回しみたいなことだよね」

 と尋ねた。

「まあ、そうだな、この場合は“弱者であること”が美化されているのだ。ガツガツと欲望をむき出しにしない弱者であることは、善いこと、素晴らしいことだと、巧みに言いかえられているのだ」

「うーん、けれども、これの一体どこが悪いの?」

「考えてもみろ、アリサ。人間が、生きることに執着し、より強者であろうとすることが、悪いこと、かっこわるいことで、弱者であること、非利己的であることがよいこととされている風潮は“奴隷道徳”なのだ」

「奴隷道徳?」

「そうだ、例えばだ。人間は利己的な生き物だ。しかし、利己的な自分を悪いものだと否定しつづけると、どうなるだろう?」

「うーん、あんまりガツガツしちゃいけないというか、ガツガツしている自分をかっこわるいとも思ってしまうかな」

「ああ。生きることに執着する気持ち、自分自身の欲求を否定することになる。
  “こういう風に利己的に考える自分はだめだな”とか“欲張っちゃいけないな”とか。人が利己的になるのは自然なことだ。
  “生存したい!”という欲求は、生まれながら生物に備わっているものだ。教えられなくても、呼吸をしたり、ミルクを飲むことを我々は生まれながらにして知っているのだ。道徳に振り回されて、生きることや自分を否定する必要はないのだ」

 たしかにニーチェの言うとおり、自分では特別意識はしていなかったが、自分本位に考えることは、恥ずかしい。

 人のことを考えないとだめだ、と思っていたけれど、それは私の意見でもなんでもなく、ただ与えられた道徳を鵜呑みにしていただけだったのかもしれない。

 そう思うと、自分の考えは、意外と他人からインストールしたものばかりのようにも思えてきた。(つづく)

【『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』試読版 第5回】自己中ではないことをよいこととするのが、ルサンチマン的発想だ

原田まりる(はらだ・まりる)
作家・コラムニスト・哲学ナビゲーター
1985年 京都府生まれ。哲学の道の側で育ち高校生時、哲学書に出会い感銘を受ける。京都女子大学中退。著書に、「私の体を鞭打つ言葉」(サンマーク出版)がある