リオ五輪で銅メダルを決めて喜ぶ日本女子卓球チーム。左から村上恭和監督、伊藤美誠選手、石川佳純選手、福原愛選手 Photo:日刊スポーツ/アフロ

大きな反響を呼んだ前回の『福原愛、リオ五輪「涙のエッジボール」猛抗議の舞台裏に続く、日本女子卓球監督・村上恭和氏へのインタビュー第2弾。

日本の女子卓球は団体戦で2大会連続のメダルを獲得し、4年後の東京五輪での金メダルも決して夢ではないところまできた。振り返れば1950年代、日本は卓球世界一の名をほしいままにしていた。しかし1980年代に入るとその栄光は過去のものとなり、世界各国に大きな後れを取ってしまった。日本の卓球を低迷させたものは何なのか? カギはビジネスの世界でも問題となっている「ある現象」にあった。(聞き手/ダイヤモンド社 田中 泰、構成/前田浩弥)

1950年代は「環境」の差で日本が圧倒していた

――1980年代以降、日本卓球は低迷の時代が長く続きました。しかしその前は、日本が「世界ナンバーワン」の時代を築いていたんですよね。

村上恭和さん(以下、村上) そうですね。1950年代、60年代はずっと世界ナンバーワンでした。

――当時はなぜ、ナンバーワンに君臨できたのでしょうか。

村上恭和(むらかみ・やすかず)
1957年広島県尾道市生まれ。近畿大学付属福山高校から近畿大学に進む。一貫して卓球選手として活躍。和歌山銀行の卓球部で現役生活を終え、31歳のときにママさん卓球の指導者として独立。その指導力が買われて、1990年に日本生命女子卓球部監督に就任。6年後に日本一になって以来、日本リーグで30回の日本一に輝く。96年に日本女子代表コーチに就き、北京五輪後の2008年10月に監督就任。2012年8月、ロンドン五輪において日本卓球界悲願の初メダルを獲得。2016年8月のリオ五輪でも銅メダルを獲得して、2大会連続のメダル奪取を達成。その戦略立案にチームづくりに力を注ぐマネジメント・スタイルがスポーツ各界はもちろん、ビジネス界からも注目を集めている。著書に『勝利はすべて、ミッションから始まる。』(WAVE出版)がある。

村上 もちろん、当時の選手の皆さんが一所懸命練習したからですが、もうひとつ言えるのは、当時の日本は、卓球をする環境が他国よりも整っていたということです。  

 環境というのは設備面だけでなく、選手が育つ環境も含めてです。高校の部活も熱心でしたし、関東を中心に卓球専用場を持っている大学もあり、強化対象の生徒は、卓球だけやっていてもなんとか卒業できた時代だったのです。それだけ評価されたということです。卓球に関しては体育大学のような役割を果たしていたんです。

――世界はまだ、そのような環境は整っていなかったのですか?

村上 はい。中国はまだ国として強化に取り組んでいなかったですし、ヨーロッパにはプロがいましたが、卓球だけで食べていけるほどの環境は整っておらず、みんな副業をしていました。学生も勉強が第一ですし、日本の大学のような環境は世界のどこも整っていなかったですね。

――日本の恵まれた環境は、1950年代の卓球ブームとともに整っていったのでしょうか。

村上 いや、それ以前からでしたね。日本が初めて世界選手権に出場したのは、1952年のボンベイ大会。男女ダブルス、女子団体、男子シングルスと7種目中4種目で初出場初優勝しました。そこから卓球ブームになったかのように言われていますが、そもそも初出場初優勝できるポテンシャルがあるということは、それ以前から卓球が盛んだったということなんですよ。

――確かにそうですね。

村上 とにかく大学同士の競争がすごかった。男子について言えば関東の大学に行ったら強くなるということで、日本中の高校卓球の猛者が、数校に集結するような構造でした。

 強い人は、中学校から卓球を始めて、高校で本格的な選手になって、大学では卓球中心の生活をするという感じ。当時の世界選手権の日本代表の多くは、現役の大学生。実業団はまだ日本でもそこまで盛んではありませんでしたので、大学を卒業するとみんな弱くなっていきましたが……。

――中でも、強かったのはどの大学だったのでしょう。

村上 日本大学ですね。日本代表を多く輩出していました。それを追って、関東なら専修大、関西なら近畿大学が続いたという感じですね。現役時代に世界一を何度もとり、第3代国際卓球連盟の会長を務め、世界中に卓球の普及させることに貢献した荻村伊智朗(おぎむら・いちろう)さんも、一度入学した大学から、いちばん強かった日大へ転学したんです。まさに、「大学全盛時代」でした。