「日経新聞って、どこを読めばいいんですか?」

 このセリフ、何人もの学生から言われたことである。「シューカツ生であれば読むべき記事というものが存在する」という“思い込み”が学生の中にはある。この記事は読むべき、これは読まなくていいというチェックを毎日してくれるサービスやサイトがあれば、就活生から圧倒的な支持を受けるであろう。

本は読めても新聞が読めない理由は?

 本は1ページ目から最終ページまで順番に読むため、人によって読む内容(や順番)が異なるというケースは少ない。読む速度に違いがあったとしても、1冊の本から読者が得られる情報は内容、量ともに読み手によってそう大きくは違わない。しかし、新聞に関しては1面から40面まで全てを読む人は少ない。みな、適宜自分に必要な情報を取捨選択しながら読んでいる。あの“ミスターニュース”池上彰さんでさえ、「新聞を全部読むなんて無理」とテレビで断言していたくらいだ。

 といっても、「自分で何かを取捨選択する」という行為を、学生たちはしたことがない(といっても過言ではない)。時間割は学校が、夕食の献立は親が「提供して」くれる。マンガやゲームにしたって、「みんな読んでる」「みんなやってる」からやっているだけ。大学生活も同じ。友達や周りと同じものを選べばすんでいた。受身か群れることでクリアできたのだ。それが大学3年になって突然、「はい、これからは情報も就職先も、自分の人生も、何でも自分で選びなさいね」と言われるのだから、戸惑うのも無理はない。

表面上は群れて、裏では群れない学生たち

 学生生活において、群れずに何かをしようとすると、周りからは「なんだか真面目にやっちゃっているね」という目で見られる。この真面目に見られてしまうというのは学生にとっては居心地が悪い。ゆえに、群れずに行動する場合は、コソコソとやるケースが多いようである。見出しの「見た目チャライのに」発言は、実際に研究室にやってきたチャラ男くんが発したものであるが、表面上は群れて、裏では群れないということなのであろう。

 この「チャラ男くん」は、実は私の研究室のドアをノックするまで相当手こずったらしい。何度も研究室の前を通りすぎては引き返し、何日かしてやっとのことでノックできたと言っていた。「だって、恥ずかしいじゃないですか」と言っていたが、初めて誰かの研究室を訪問するのは当然恥ずかしいが、それ以上に、先生の研究室を訪問して人生相談をするという行為が、それまでのチャライ群れ集団の価値観では受け入れられないものだったからだと思う。群れずに行動する際の敵は、周りの目とそれまでの自分の属する集団の価値観ということになる。