「幸せ食堂」繁盛記
【第三十八回】 2016年11月15日 野地秩嘉

とんかつの神は、脂身に宿る
「幸せ食堂」繁盛記・外伝その2

よく溶いた辛子と、ほんの少しの醤油がいい

 極上素材を使ったとんかつを食べたことがある。場所はマドリードの日本料理店。けれどもシェフはスペイン人である。素材はイベリコ豚ベジョータの肩ロース肉を揚げたものだ。ベジョータはどんぐり(正しくは樫の実。日本で言うどんぐりは椎の実)を餌にして育ったイベリコ種の豚で、食べるとナッツの香りがする。普通はグリルして食べるか、生ハムにする。

 揚げ油はスペイン産オリーブオイル。イベリコ豚が育った近くで摂れたオリーブの実から絞ったという、うんちく付きだった。

 パン粉はわざわざ日本から空輸した食パンのそれ。値段は高かった。100グラム程度のとんかつ1枚が4000円近くもした。スペイン人シェフは脂身を外し、肩ロースの肉部分だけを使っていた。食べた感想は「……」。オリーブオイルの味の方が強く、イベリコ豚のナッツのにおいは消えていた。それに、オリーブオイルで揚げたものは白飯(しろめし)には合わない。

 一方、普通の肉だけれども、忘れられない味のとんかつに出会ったことがある。かつて池波正太郎が通った店、築地の「かつ平」だ。かつ平のロースかつは脂身が多い。店主は「大トロみたいなロースかつ」と表現するが、確かに中身の半分は脂身だ。

 しかし、かつ平のそれを食べていると、「豚を食っている」満足感がある。池波さんは脂身とんかつにからしをべっとりつけて食べていたそうで、真似して食べると、口のなかにまず辛さが来て、あとで脂の甘みが広がる。水を飲まなくとも、脂身がからしの辛さを中和してくれる。ご飯のおかずのとんかつというよりも、冷えたウォッカのつまみにしたい一品だ。

 さて、わたしが何が言いたいかと言えば、とんかつのおいしさは脂身にあることだ。

 肉だ、揚げ油だ、パン粉だ、付けあわせの千切りキャベツだとさまざまな意見があるけれど、極上豚と脂身とんかつという正反対のとんかつを体験したわたとしては脂身のついた肉を普通のパン粉と油で揚げたものがいちばんだと思う。

 ヒレかつが好きな人には申し訳ないけれど、質のいい脂身には甘みが含まれている。人はなんだかんだと言っても、甘みのある味が好きだ。

 池波さんが達人だなと思うところは脂身とんかつに甘いソースをかけなかったことだ。甘みに加えて甘いとんかつソースではクドい。脂身とんかつにはよく溶いたからしとほんの少しの醤油がいい。ついでに言えば、千切りキャベツにもからし醤油が合う。こうすれば日本酒のつまみにもなるし、ご飯のおかずにもなる。 

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野地秩嘉 1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業。出版社勤務、美術プロデューサーなど を経て、ノンフィクション作家に。食や美術、海外文化の評論、人物ルポルタージュ など幅広く執筆。近著に、「TOKYOオリンピック物語」「イベリコ豚を買いに」「打 ち合わせの天才」「アジア古寺巡礼」「アジアで働く いまはその時だ」など。


「幸せ食堂」繁盛記

この連載は、味がよく、サービスも悪くなく、値段はリーズナブルで、しかも、できればハイサワーやホッピーを置いている店のグルメガイドだ。ここで紹介される店は、金持ちの社長やグルメ評論家はまずいない。著者は、そういう店を「勤労食堂」「国民酒場」と呼ぶ。そこでは客が微笑しながら食べている。ほほえみながら食べている人と一緒にいることは至福だ。人生の幸せは勤労食堂もしくは国民酒場にある。

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