「意識高い系」と
「リア充」はまったく違う存在

――「意識高い系」がSNSでアップするのは、いかに自分が都会的で、洗練され、社交的で、良い女、できる男かという、いわゆる「リア充」アピールなわけですが、古谷さんはそもそも「意識高い系」は本当のリア充には絶対になれないとも指摘していますね。

 はい、「意識高い系」と「リア充」はまったく違う存在で、そこがまさに重要な部分です。

 本当のリア充というのは、親からの土地、資産を受け継ぎ、土着し、スクールカーストの支配層に所属し、社交的で容姿に恵まれ、異性経験も豊富で、卒業後もすでに確立された人脈の中で暮らす人々です。「幼稚舎から慶應」なんて人が典型ですね。そういう本当のリア充は、最初から周りから承認されているので、わざわざ生活ぶりを人に見せびらかす必要がありません。

 あるいは極めて土着的で閉鎖的なコミュニティの中に生きている人もリア充です。わかりやすい例で言うと、ドラマ「木更津キャッツアイ」や漫画「TOKYO TRIBE」の登場人物たちは、その土地を媒介した人間関係で成立しています。「幼稚舎から慶應」とはまったく別世界の人種ですが、彼らもスクールカーストの支配階級であり、仲間内での位置づけは自明なので、わざわざ他者へのアピールを必要としない。

 要するに、真の強者はアピールなんかしないんです。SNSで自分がいかに派手な生活をしていて人脈も豊富で社会貢献にも関心があることを盛んにアピールする人間は偽物です。自明のことは表明されないからです。リア充とは、「意識高い系」とは似て非なるもので、リア充にとっては「意識高い系」と混同されるのも不名誉なことだろうと思います。

──なるほど、「意識高い系」がいくらリア充アピールしても、絶対にリア充にはなれないし、その行為自体が矛盾しているわけですね。

 というのも、ほかならぬ僕自身が元「意識高い系」で、もともとその素質があると自覚しているんです。だから「意識高い系」とされている人たちの立場に立ったときに、どうして彼、彼女らが周りの承認を求めるのかが非常によくわかりました。

 この本は「意識高い系」の“研究”ではありますが、4割は僕の“自伝”といってもいい。自分自身に置き換えて、「意識高い系」とは日本の戦後の社会の根本的な歪みみたいなものが生んだ被害者なのではないか、という考えに至った時、2ちゃんねるやまとめサイトで、ただ嘲笑や揶揄の対象として消費されるだけではかわいそうで、きちんと研究しないといけないと思いました。

――古谷さんの出身地は北海道で、大学は京都の立命館大に進んだんですよね。

 北海道という土地自体、その住民は主に明治以降に内地からやってきた移民の集合体で、代々土着の民の影が薄いところです。しかしながらそこでも、スクールカーストという天然的な要素が反映する階級化は進んでいく。僕は中学でも高校でも、その階級の中でトップに立つことができなかった。よって生まれ育った地元とはまったく別の土地に行くことで、土地に立脚した人間関係を清算し、ゼロから出発するグレートリセット、いわゆる「大学デビュー」に憧れたのです。しかし、完全に失敗しましたね。