完璧主義は、成功の秘訣の一つとして崇拝されることもあるが、それは違う。単に「自滅へのシナリオ」にすぎないのだ。本記事では、自身が完璧主義に陥らないよう、また部下がそこから抜け出せるようメンタリングする方法を論じる。


 我々がきまって驚かされることがある。それは、企業のCEOや大学の学長、あるいは米海軍兵学校の士官候補生の集まりで完璧主義を話題にすると、訳知り顔に笑みをたたえ、一様にうなずくことだ。

 ほどなく、ここにいる誰が最も完璧な完璧主義者か、さりげない自慢合戦が始まる。たいてい完璧を求めることの美徳を褒めたたえ、みずからの傑出した強みとして完璧の追求を挙げるはずだ。この「完璧」崇拝は、ゼロディフェクト(無欠陥)をよしとする職場環境であればなおのこと助長される。

「よい完璧主義」という誤った概念があまりに広く浸透したために、有害な完璧主義を前向きな特性、すなわち達成感の追求や卓越性への努力、高い自己目標基準の設定などと区別できずにいる人が少なくない。心理学者のトーマス・グリーンスポンの調査によれば、完璧主義と卓越への努力を混同するのは誤りである。完璧を目指すことと卓越を目指すことは、同一線上にはない。まったく異なる構成概念なのだ。

「よい完璧主義」という概念は、実は矛盾した表現である。完璧主義者が仕事で成功しているとしたら、それは彼らが完璧主義だからではない。完璧主義であるにもかかわらず、成功したのである。

 冒頭のCEOや学長、あるいは士官候補生に、「習慣化した完璧主義は精神的な苦痛、ぎくしゃくした人間関係、さらには強迫性人格障害の診断基準につながっている」と伝えると、笑みと威勢のよさは消えるだろう。真の完璧主義者は、こうした目に見えない代価を嫌と言うほどわかっているのだ。

 人格障害としての完璧主義に関する研究から、完璧主義が二つの異なる要素から成り立っていることが明らかになっている。

 第一に、完璧主義者は自分のパフォーマンスにあり得ないくらい高い――明らかに実現不可能な――基準を設ける。第二に、そうした目標を達成できない自分を厳しく非難する。この結果、完璧主義者は失敗を恐れ、ミスを犯す可能性を憂慮し、強い義務感と義理で(熱意や健全なチャレンジ精神ではなく)動くようになる。そして、他者に非難されるかもしれないという思いに取りつかれている。なかには、「おびえながら働いている」と言える人々もいるかもしれない。

 精神科医のデビッド D. バーンズによれば、完璧主義とは成功の秘訣ではなく、「自滅へのシナリオ」だ。完璧主義者はミスを防ごうとするあまり、クリエイティビティを抑え込み、必要なリスクを背負うことを避けてしまうのだ。自己批判的な完璧主義者は鬱(罪悪感、怒り、悲しみ、やる気の低下、喜びの欠如)や不安、絶望感、さらには自殺願望といった症状に苦しむ傾向がより強い。

 では、完璧主義とはどのように根づくのだろうか。