西八王子の住宅街に佇む「坐忘」。その潜り戸を通り抜けると別世界へと誘われる。そのスタイルは「隠れ家」という言葉がもてはやされる前から変わらない。粗挽き、せいろ、変わり蕎麦と常時3種類が用意された蕎麦と、本格の蕎麦懐石は都心を離れ、ゆったりと過ごす時間にふさわしい。

その佇まいは小料理屋か、それとも昔の茶屋のよう
潜り戸を抜けると別世界が広がる隠れ家蕎麦屋

 西八王子駅から5分ほど、住宅街の中をしばらく歩くと、黒塀に囲まれた店らしき家にぶつかる。一見、蕎麦屋には見えないその店は、小料理屋か、昔の茶屋のような雰囲気がある。ここが目当ての店なのか、少し不安になって屋号を確かめるが間違いない。

 西八王子にあって、特異な存在感を示している「坐忘」。この店が開店したのは、今から18年前の1993年。当時はまだ、「そば屋ニューウエーブ」※1という言葉は無かった。もちろん、「隠れ家」という言葉がもてはやされるのは、まだずっと先のことになる。だが、「坐忘」がニューウエーブや隠れ家と言われる蕎麦屋の先陣を走ってきたと言っても過言ではない。

 黒塀を入ると小さな庭があり、玄関口は頭を下げて入る、潜り戸である。隠れ家的にいえば「くぐり」、茶室でいえば「にじり」※2という。茶室の入り口である「にじり」は、“ここからは現世を忘れる”という境界線であり、別の世界への入り口を意味した。

西八王子「坐忘」――潜り戸の先に広がる別世界。都会の喧噪を忘れ、極上の蕎麦と懐石に酔いしれる住宅街を入ってしばらくすると、黒塀に囲まれた「坐忘」が忽然と現れる。庭は待合があり、喫煙もできるようになっている。入り口(写真右)は頭を下げて潜らなければならない。これよりは別な世界の心構えとなる。

「蕎麦屋は空間が命。お客様を別世界に招きたいんです。だから、まるでタイムスリップしてしまったような、不可思議な雰囲気を持った店でありたいと考えています」と「坐忘」の店主、萩原久信さんは語る。

※1 蕎麦屋ニューウエーブ:老舗蕎麦屋とは対照的な蕎麦屋が1990年前後から誕生した。和風モダンの設計、ジャズのバックミュージック、こだわりがテーマ。従来の蕎麦屋の定番の板わさ、蕎麦味噌に加えて、料理も和食懐石や創作的なものを取り入れた。1994年頃からニューウエーブ蕎麦屋と言われ始め、これに脱サラ蕎麦屋ブームが続いた。

※2 にじり:客は座敷に招かれたあと庭へ出て小さな門をくぐる。茶室までの通り道は、打ち水がされた渡りの飛び石があり、露地を行く。途中の待合に腰掛があり、ここでしばらく待つ。迎えの亭主に従い客は茶室へと案内される。外界から、異次元の空界に渡るのはある程度の心構えと状況設定があり、それが侘び、寂びへの誘いであった。にじりはそのタイムトンネルであった。