東日本大震災の大津波によって、児童・教職員84人という世界でも例のない犠牲者が出た石巻市立大川小学校。連載第1回は震災から1年3ヵ月目の遺族の実情、第2回は同市教育委員会が計画した第三者委員会設置の意味、第3回は遺族が指摘する調査記録の主な不審点を、そして第4回では市教委と保護者側の話し合いの主な論点を紹介した。今回は、震災後、多くの学校現場が被災した同市教委の中では、いったい何が起きていたのか、そして1年4ヵ月経ったいまも、保護者側と手詰まりな現状の板挟みに陥る市教委の戸惑いを聞いた。

震災当日からの石巻市教委の様子を語る、市教委学校教育課の山田元郎課長(2012年7月9日、石巻市役所)
Photo by Yoriko Kato

 未曾有の大災害に遭い、大川小学校をはじめ、多くの学校が被災した石巻市。同市教委は、震災後の数ヵ月間、限られたマンパワーの中で混乱し、教育長も前年12月から6月まで長期不在が続くという、異常な状態の中で対応せざるを得なかった。

 そんな混乱する市教委の中で、震災直後からいまに至るまで、事実上の責任者として、大川小学校をはじめ、各学校の被災状況についての情報収集を取りまとめてきたのが、前回のやりとりにも出てくる山田元郎学校教育課長だ。

「(大川小学校で)これだけ多くの子どもが亡くなっていることを重く受け止めています。どうしてこのようなことになったのかをおさえて、2度とこのような悲劇が生まれないようにしたい」

 山田課長はそう昨年の3月11日を振り返る。

 そんな市教委が、一方でなぜ、大川小児童の遺族たちから矛盾や不備を指摘され、不信感を持たれるような公文書をまとめるに至ったのか。

かすかに伝わる各校の状況を
ホワイトボードに書きとめた「あの日」

 あの日、三陸自動車道の鳴瀬大橋を車で走り仙台に向かう途中、地震に遭った山田課長は、そのまま引き返して石巻港インターで降りた。渋滞の中ようやく市役所に着くと、すでに周囲には10センチほどの津波の第1波が押し寄せていた。

 間一髪、教育委員会に戻ると、2人の指導主事は情報収集に出かけていて、残った2~3人が各校の情報収集に追われていた。しかし、地震直後から電話のつながらない学校が多く、つながったのは10校ほどだったという。津波が来てからは、市内の電話は一切使えなくなった。電気も消えて、自家発電による最低限の非常灯だけで、何とか見える状態だった。

「内線電話があまり使えないので、人が頼りなんです。ほとんどは、総務課に張り付いている連絡員が支所から寄せられる情報を持ってくるような状況でした。市役所全体がワラワラしていて、我々は、各学校がどんな状況なのかをホワイトボードに書き込んでいったんです。支所の管轄内は、それぞれの支所が災害対策で動いていますので、こちらでは主に旧市内を対応していました」(山田課長)