小学生のころのある日を思い出す。学校から帰って冷蔵庫を開け、真っ先に牛乳を飲んだところ、口の中に何かゼリー状の塊を感じあわてて吐き捨てた。「お母さん、この牛乳腐ってる!」という私に「ごめん、ごめん、腐ってた? お口洗って正露丸飲んだら大丈夫、大丈夫」と薬箱から正露丸を取り出す母。

 当時、何か変なものを食べたときやお腹の調子が悪いときは、いつも正露丸を飲まされた。歯痛にも正露丸を詰められた。子どもながら私も、正露丸はよく効く薬だなと感心していた。

 最初の外科研修先だったS救命救急センターに勤め始めて数ヵ月後、私は「先生のお父さんは正露丸を作ってるんだって? あの薬はよく効くな、コレラにだって効いてるよ」とOセンター所長に声を掛けられた。

 さらに「アフリカでの海外医療支援ではスタッフはずいぶん正露丸の世話になってるんだ。何でそんなに効くのかな」と質問が飛んできた。とっさに「主成分の木クレオソートに殺菌効果があるからだと思いますが」と答える私に、「特に腹痛によく効く。即効性があるし。しかし殺菌効果では腹痛を止める説明にはならないな」とO所長はおっしゃる。

 確かに腸内を殺菌して悪玉菌を減らしても、すぐに痛みが収まる理由にはならない。腹痛を止めるには腸の緊張を取り除く必要があるのだ。トイレを我慢しているときに腹痛が起こるのと同じで、腸、特に大腸の運動が高まり、腸内圧が増して腸が伸びたり引っ張られたりすることで内臓神経が刺激され、腹痛を感じる。

 以来私の中で"正露丸はなぜ効いているのだろう"という素朴な疑問が続いた。そんなある日、たまたま開いた学生時代の薬物学実験の教科書の「マグヌステストの模式図」が目に飛び込んできた。小動物から摘出した、まだ生きている腸の両端を生理食塩水の中に紐で固定し、腸が収縮すると上の紐が地震計みたいに腸のゆれを紙に記録する。ここに正露丸成分を少量加えて腸管運動の薬理作用を見れば、腸運動に作用しているかどうかがわかるはずだ。私は即刻、"正露丸を作っている会社"の社長である父に、実験の必要性を伝えた。

 それから数年後のT病院外科外来。

 「次の患者さんどうぞお入りください」と私が呼ぶと、カーテンを開き診察用のイスに中年女性のYさんが背中を丸め、お腹を押さえながらゆっくり座った。

 「いかがされましたか」と私。

 「昨日の夕方から胃が痛んで、夜通し調子が悪くて、朝になるとだんだん痛みが下に下がってきて、刺し込むようになってきました」とYさん。

 「お熱はいかがですか」

 「朝、熱計ったとき37度2分ありました」というやりとりの後、ベッドに横になってもらいながら、

 「お薬は何か飲まれましたか」と私が訊ねると、Yさんは目を見開いて申し訳なさそうな表情になり「実は正露丸を飲んじゃいました、すみません」という。