かつてこんな起業があっただろうか。山崎智士が化粧品OEM(相手先ブランドでの製造)会社、サティス製薬を創業したいきさつは、あまりにも常軌を逸していた──。
高校を中退した山崎は、17歳のときに、ある化粧品製造会社に就職した。社長は技術者として名をはせた人物で、山崎に化学の基礎から化粧品開発に至るまですべて教えてくれた。まさに恩人といえる存在だった。
20歳のころには岡山大学の研究室へ出向させてもらい、アトピーなど皮膚アレルギーに低影響の洗浄剤の開発に没頭した。ところが、研究の完成まであと一歩のところで急遽会社に呼び戻され、社長にこう告げられた。「独立する」──。
実は社長は雇われであり、オーナーである会長とは絶えず意見が衝突していた。そのため、社長は複数の社員と共に新会社を起こすことにしたのだ。そのメンバーの1人として山崎にも声がかかったというわけだ。
山崎は迷うことなく社長に賛同し、新会社設立のための資金調達などに奔走した。だが、当時はバブル崩壊の傷痕が深く、会社設立は遅々として進まなかった。複数いたメンバーも徐々に離れ、最後は社長と山崎の2人だけとなった。それでも起業の決意が揺るがなかった山崎は、工場の仮契約などを進めた。
ところが、毎晩連絡を取っていた社長が、突如3日も音信不通となった。不安に駆られた山崎は社長の自宅に出向き、車で帰りを待った。社長は深夜に帰宅したが、予感めいたものがあり山崎は声をかけず、車中でまんじりともせず夜を明かした。
翌朝、自宅を出た社長の後を車でつけると、見たこともない建物に入っていった。不安が極限に達した山崎は建物に入り、驚く社長に、「ここが新しい会社ですか?」と問いただした。対して社長は、「僕はここでやっていくから」と答えた。2人での創業に不安を感じた社長は、別の会社の下で事業を始めることにしたのだ。まさしく恩人たる社長に裏切られた瞬間だった。
目の前が真っ暗になったが、すでに工場の仮契約を済ませ、内装工事も進んでいた。ここでストップすれば、山崎が立て替えた3000万円もの負債を抱え込んでしまう。途方に暮れたが、「事業を始めてもいないのに破産するのは嫌だ」と思い、単独での起業を決意した。22歳のことだった。