元日本経済新聞記者でジャーナリストの牧久氏は『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』で、臨調に分割民営化の共通認識が生まれたのは1981年11月、国鉄OBで交通評論家の角本良平氏に対するヒアリングの場だったと指摘する。

 角本氏は「経営形態は単に民営化にとどまらず、分割してこそ国鉄再生はある」として「国鉄労使と国民全体の親方日の丸気分を一掃し、かつ、地域に密接した判断を可能にさせるためには、地域分割が必要である。九電力程度でも少し大きすぎる。運賃の改定手続き、労使関係も私鉄と同様にし、給与の財源は労使が自ら稼ぎ出すものだということを自覚する必要がある」と述べた。

 一方、葛西氏は同年4月に臨調を担当する総裁室調査役に就任すると、すぐさま臨調の中心人物である瀬島龍三氏に接触し、意見を交換している。葛西氏は著書の中で「(1985年に決定する)旅客六社の分割案は1981年、私が第二臨調担当調査役として着任してすぐ、少人数の非公式研究会をスタートさせた時点で描いた分割方法と基本的に同じであった」と述べており、国鉄改革グループが水面下で関与して分割方針が形成されていった可能性が高い。

 国鉄改革三人組の一人、井出正敬・JR西日本元会長も答申に呼応した。井出氏は若手管理職を集めた私的な勉強会を開始し、臨調報告にどう対応すべきか、分割民営化は実現可能かなどを議論し、列車の設定方法や車両の配置まで踏まえた「本州九分割を含む全国十三分割の再建案」を結論としてまとめた。葛西氏と井出氏、松田昌士・JR東日本元会長と繋がったのはこの頃だ。

 臨調の報告を受けて1983年に国鉄再建監理委員会が発足すると、翌年に分割民営化方針を正式に公表する。国鉄守旧派はこれに対抗すべく非分割・民営化による独自の再建案を公表したが、牧久氏によれば、彼らはレールがつながる本州・九州の非分割さえ守られれば、「北海道、四国については国の政治的判断で分離・独立もあり得る」と考えていたという。公然たる影響力を維持していた田中角栄氏もこれに同意していた。

 しかし守旧派の再建案は政府の怒りを買い、総裁以下7人の役員は1985年に更迭。国鉄再建監理委員会は中曽根康弘総理大臣に分割民営化を答申した。答申は三島会社に加えて本州を、首都圏を基軸に東北・上越新幹線と東北・信越の在来線を組み合わせた会社、東海道新幹線を軸に中部圏在来線を組み合わせた会社、近畿圏を基軸に山陽新幹線と中国地方の在来線を組み合わせた会社の三つに分割するとした。