国鉄時代の内部補助が生き残った
新幹線保有機構の問題スキーム

 監理委員会と水面下でつながっていた葛西氏は、この答申は「第二臨調以来、われわれが検討を積み重ねてきた内容をおおむね反映したもので、予想に沿ったものとなっていた」と述べている。

 ちなみに中曽根氏は後に、内部の議論では本州を東西で二分割する案が有力だったが、「東西をけん制させ、刺激を与えて談合的マンネリ化を防止する」ために「東日本、西日本の二社の間に東海を入れて三社体制にしたのは私の発想だった」と主張している。

 もちろん最高責任者である以上、数ある分割案の中から最終的に三分割を決定したのは間違いないとしても、葛西氏の証言からしても三分割案が中曽根の発案ということは考えにくい。国労発言といい、後年になって少し話が大きくなっていると見るべきだろう。

 これに関連して、中曽根氏と葛西氏が「結託」し、東海道新幹線を自らの手に収めるべくJR東海を設立したという説がある。国鉄改革三人組は当初、北海道出身の松田氏はJR北海道に、3人の中で年長の井出氏は看板会社であるJR東日本に行く予定だったが、政財界の事情で変更になったという。しかし葛西氏は予定通り東海に行ったことも根拠の一つだ。

 この説は葛西氏が東海道新幹線という財産を独占する仕組みを自ら作り上げたことが前提になるが、実際には監理委員会の議論が終盤になって運輸省OBの委員が提案した「収益調整」の仕組みが導入されたことで、発足当初のJR東海は彼にとって魅力的な会社ではなくなっていた。

 分割民営化というと旅客6社と貨物が思い浮かぶが、実際には12法人が事業を継承している。そのうちの一つ「新幹線保有機構」は東海道・山陽、東北・上越新幹線の設備を保有し、各社に貸し付ける特殊法人だった。これは単なる上下分離ではなく、リース料を調整することで東海道新幹線の生み出す圧倒的な利益を東北・上越、山陽新幹線に付け替え、JR東日本と西日本の採算性を確保する内部補助の仕組みだった。

 葛西氏は「新幹線保有機構に首根っこを押さえられ、経営の面白みがない。借金返済のトンネル会社だ」と嘆き、スキームの欠陥を厳しく批判する。

「『会社全体としての収益力』の調整を、路線網、収益力のいずれで見ても全体の一部分でしかなく、しかもその比率が各社各線で大幅に異なる『新幹線の収益』だけに依拠して行うという非対称な制度は、会社の収益力を正当に評価せず、新幹線のウェイトの高い特定の会社に過重な負担をかけるという点で不適切な制度であった」

「地上設備を新幹線保有機構から賃借してJR本州三社が運営し、かつ維持更新投資は借り手の負担で行うというこの制度では、借り手側は減価償却費の計上が出来ないため、借金に依存せざるを得ず、安定経営が阻害される。特に東海道新幹線が全収入の85%を占めるJR東海では、顕著に問題が現れる」

 結局この仕組みは、本州三社の株式上場が具体化した際に、東京証券取引所から「恣意的に収益基盤に変化がもたらされるような投資物件では、独立した企業として問題」があり、また「リース期間終了後の権利関係が不明確では、投資者の的確な投資判断が困難」であるとの指摘があり、1991年に廃止。各社が新幹線保有機構から設備を買い取ることになった。

 確かに新幹線保有機構は中途半端で問題の多いスキームだったが、JR間の利益を調整し、経営を安定させる発想には一定の説得力があった。だが葛西氏はこれを「分割により断たれたはずの内部補助が変形として生き残った」として、国鉄改革の趣旨に反するものだと批判する。