「国葬やって良かった」世論を誘導する方法とは

 「そんな不正をしなくても安倍さんの国葬は多くの国民や有名人がかけつけて大盛り上がりするに決まっている」という安倍元首相の支持者も多いだろう。だが、残念ながらなにも「仕込み」をしないと、かなり寂しいことになるはずだ。それは安倍元首相の功績がどうとか、人望がどうとかではなく、「日本の国葬」の宿命だ。

『吉田茂氏の国葬は「大不評」だったのに…安倍氏国葬をゴリ押しする政府の過ち』(7月21日)の中で詳しく述べたが、国民的人気を誇った吉田氏の国葬に国民はかなりシラけてしまった。戦後の日本は税金を投入するような国家イベントは「無宗教」でなくてはいけないというルールができたので、無機質な「お別れの会」にしかならず、国民の弔意をなえさせてしまったからだ。

 聖書に手をのっけて大統領が宣誓するようなアメリカなど、政治の中に宗教観が自然に入っている国では、国葬はやる意味がある。それぞれの宗教の教義に基づいているので、信者を中心に弔意が自然に盛り上がる。また、宗教儀式ならではの荘厳な雰囲気があるので、信者でない者も襟を正して、故人への敬意の気持ちが高まる。つまり、世界の多くの国では、国葬というものはちゃんと「宗教イベント」として成立しているのだ。

 しかし、日本の場合、政府が税金で「宗教イベント」をするなど断じて許されない。

「じゃあ、宗教色ゼロでにぎやかに送り出せばいいじゃん」と思うかもしれないが、「国葬」の場合それも難しい。もし国民的人気のある歌手や歌舞伎役者に何かの出し物をやらせようと思ったら、その費用はいくらか、どういう根拠で人選をしたのかなども追及されてしまう。野党やマスコミは、国葬にかこつけて、政府や自民党のPRにしているのではと叩くだろう。そうなると、吉田氏の時のように、当たり障りのないクラシック音楽を延々と会場に流すしかないのだ。

 このような「国葬」の現実を踏まえると、筆者は何らかの形で「芸能人・有名人の仕込み」が行われる可能性が高いと思っている。「国葬」というイベントの無機質さ、地味さを考えると、国民に「安倍さんは偉大な政治家でした」と思わせられる方法は、「豪華な弔問客」しかないからだ。

 もちろん、自発的にやってくるような芸能人もいるだろうが、幅広い世代にアピールをして国家の威信を示すには、「桜を見る会」のようにバラエティに富んだメンツにしなくてはいけない。それを実現するには、それ相応のカネが必要だ。

 現在、16.6億という「安倍国葬」の費用はどこまでふくれ上がるのか。そして、政府はどういう作戦で「なんだかんだ言って、やっぱり国葬やって良かったね」という世論をつくっていくのか。注目したい。

(ノンフィクションライター 窪田順生)