◇正解のない問いと向き合う

 モスクワ留学時代、師事していたミハイル・ヴォスクレセンスキー先生に「好きな作曲家はいますか?」と質問した。すると先生は「私はその質問には答えません。音楽家は全員均等に好きであるべきだと思うからです」と言った。たしかに、師匠が好きな作曲家を知ってしまったら、その作曲家を色眼鏡で見てしまい、浅はかな目線で音楽に優劣をつけてしまいかねない。

 この話は、音楽に限らず私生活にも通じるだろう。「この人はこういう思考回路を持っているのだな」と決めつけてしまうと、その人がもつ他の人間性が見えなくなってしまう。人の内面は多重構造になっており、一筋縄ではいかないものだ。矛盾する感情の葛藤に苦しむ人はたくさんいる。

「憤り、やるせなさ、寂寥感、苛立ち、歓びと多幸感、すべての感情は音楽の滋養になる」。人の生き方に正解がないように、音楽にも王道や正解はないのだ。

◆クラシック音楽界に革命を起こす
◇プレイヤーと経営者の二刀流

 著者はピアニストでありながら、経営者としての顔ももつ。音楽でご飯を食べていく方法を考え、スタッフの人件費を稼ぎ出し、ほかの音楽家の生活の心配もする。そうした経営の仕事にかまをかけていたら、練習時間はおのずと少なくなってしまう。

 しかし歴史を振り返ると、音楽家が演奏だけに専念できている時代はそんなに長くない。モーツァルトやベートーヴェンは自分でピアノを弾き、作曲するだけでなく、演奏会を企画してパトロンに挨拶回りすることまでやっていた。彼らはプレイヤーでありながら、資金繰りに奔走する経営者でもあったのだ。

 どんなに素晴らしいプレイヤーであっても、演奏の素晴らしさを宣伝して、ファンを呼び込むマーケティングが欠けていれば客席は埋まらない。著者は2015年7月に21歳で大手レコード会社・日本コロムビアからアルバムを発売し、メジャーデビューを果たした。しかし3年間の契約満了後は、批難を受けながらも、独自のマネジメントで活動の幅を広げる道を選んだ。

 そして2018年11月、株式会社NEXUSを設立して代表取締役社長に就任する。「nexus」とは英語で「つながり」を意味する。自分が掲げるメッセージに賛同してくれる音楽家とスタッフをつないでいきたいという願いをこめた。