批判を受ける側も、自分の言わんとすることをちゃんと聞いてもらい、それをよく理解してもらったうえで、納得できる問題点を指摘されるのであれば、苦い思いをしたり、多少傷つく部分はあるとしても、感謝する部分の方が多いだろう。(これは実際、私が学術的な論文を書いたり発表を行ったりした際に、さまざまな批判を受ける経験を重ねる中で実感していることでもある。)

いつもの言葉を哲学する『いつもの言葉を哲学する』
古田徹也
定価935円
(朝日新聞出版)

 また、批判を行う側にとっても、相手の言葉によく耳を傾け、それをよく理解しようと努めることは、自分には見えていないものの見方や馴染みのない考え方に触れ、学ぶ機会になる。そしてそれは、問題に対する理解を深め、解決の道を探る大事な手掛かりになりうるのである。

 批判は、相手を言い負かす攻撃の類いではない。繰り返すなら、批判は相手とともに問題を整理し、吟味し、理解を深め合うために行われるべきものだ。それゆえ、批判は、相手に真っ向から向き合うというよりも、言うなれば、お互いに少し斜めを向き、同じものを見つめ、そのものの様子や意味について語り合う、というイメージで捉える方が適当だろう。

 そして、そのような場が成り立つための大前提として、私たちは自分の言葉に責任をもたなければならない。私たちが臆面もなく、「さっきの言葉はそういう意味で言ったんじゃない」といった言い抜けを繰り返したり、口に出した言葉を取り消そうとしたりするのであれば、<相手が発した言葉を真面目に受けとめ、よく理解しようと努める>という営み自体が不可能になってしまうからだ。

◆ふるた・てつや 1979年生まれ。東京大学准教授(倫理学)。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。著書に『言葉の魂の哲学』(サントリー学芸賞受賞)、『このゲームにはゴールがない』など。

AERA dot.より転載