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かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

童謡の作詞作曲家が流行歌も生んだ。
「船頭小唄」から「東京行進曲」へ

坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]
【第41回】 2013年12月13日
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関東大震災(1923年9月1日)は、童謡の隆盛、レコード産業の成長、そして浅草オペラに代表される大衆文化が開花し、経済成長を続ける日本社会に大きな打撃を与えた。しかし、こうした危機下に流行歌が生まれ、都市の整備が進み、東京はモダン都市に変貌していった。流行歌は東京を主題に織り込んでいく。

「十五夜お月さん」と「船頭小唄」

 野口雨情が雑誌社「金の船」に入り、社員として童謡詩の量産を始めたのは1920年8月からである。「金の船」同年9月号に「十五夜お月さん」(野口雨情作詞、本居長世作曲)が掲載されたことは連載第40回に詳しく書いた。

 雨情は故郷の茨城県中郷村(現在の北茨城市)にもどっていた1918年秋、「枯れすすき(芒)」という詩をつくっている。翌1919年には11月創刊予定の「金の船」の依頼で童謡詩を書き始めているが、この年の8月、中山晋平を訪ねて「枯れすすき」に曲を付けてほしいと頼んだ(野口不二子『野口雨情伝』講談社、2012)。

 晋平は童謡にはまだあまり手を付けていない。「金の船」からの要請には東京音楽学校の教官、本居長世を紹介している。晋平の童謡量産はもっとあとからだ。

 「枯れすすき」を受け取った晋平はそのまま1年以上、曲を書けなかった。というより後回しにしていたのかもしれない。晋平の評伝を著した和田登さんはこう解釈している。

 「この年(1919年)の正月五日には、松井須磨子が島村抱月の後を追って自殺を遂げている。晋平にしてみれば、恩師にも置いていかれ、彼の歌をうたうカナリアにも死なれ、自分自身の運命の曲折を余儀なくされていた。そんな際に見せられた詩が、また暗い――」(和田登『唄の旅人 中山晋平』岩波書店、2010) 

 つまり、自身の周囲の不幸を考えるとこの詩は気が滅入る、といったところか。晋平が曲を完成させたのは1921年、楽譜の出版が22年前半、レコードが発売されたのは22年9月から23年1月にかけてである(これらの時期については文献により違いがある)。

 レコードは5社から数種類出たようで、歌手も7人以上いる。演歌師がヴァイオリンの弾き語りで流行の片翼を担ったという(倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍、1992)。楽譜出版時に「枯れすすき」は「船頭小唄」と改題されている。松竹がすぐに映画化し、1923年1月に公開している。

 これが「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき」と続く流行歌「船頭小唄」の誕生である。晋平にとっては「カチューシャの唄」など芸術座の劇中歌から離れて、最初の流行歌としてヒットした曲だ。ただし特定の歌手とは結びついていない。

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坪井賢一 [ダイヤモンド社論説委員]

1954年生まれ。78年早稲田大学政治経済学部卒業後、ダイヤモンド社入社。「週刊ダイヤモンド」編集長などを経て現職。著書に『複雑系の選択』『めちゃくちゃわかるよ!経済学』(ダイヤモンド社)『浦安図書館を支える人びと』(日本図書館協会)など。


かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史

日本のポピュラー音楽の誕生をレコード産業の創始と同時だと考えると、1910年代にさかのぼる。この連載では、日本の音楽史100年を、たった20年の間に多様なポピュラー音楽の稜線を駆け抜けた本田美奈子さんの音楽家人生を軸にしてたどっていく。

「かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史」

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