神保 なるほど。僕は心理学とか精神医学の門外漢なのですが、今回『嫌われる勇気』を読ませて頂いて、自分にとって大袈裟に言えば人生の書のように思っているヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』にものすごく多くの共通点を感じたんです。フランクルも心理学者ですが、これは何か接点があったんでしょうか?
哲学者。1956年京都生まれ、京都在住。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学。専門の哲学(西洋古代哲学、特にプラトン哲学)と並行して、1989年からアドラー心理学を研究。精力的にアドラー心理学や古代哲学の執筆・講演活動、そして精神科医院などで多くの「青年」のカウンセリングを行う。日本アドラー心理学会認定カウンセラー・顧問。訳書にアルフレッド・アドラーの『個人心理学講義』『人はなぜ神経症になるのか』、著書に『アドラー心理学入門』など多数。古賀史健氏との共著『嫌われる勇気』では原案を担当。
岸見 フランクルはアドラーの弟子ではないのですが、のれん分けをしてもらったような感じでしょうか。活動を共にしていた時期があるので、当然、影響を受けているはずです。『夜と霧』はアドラーの考えに近いと私も感じますし、それは偶然ではなく歴史的に見て二人に接点はあったわけです。
神保 やはりそうですか。それで、フランクルの本から多く引用しているのがスティーブン・コヴィーの『7つの習慣』なんですが、やはりそうした人たちもアドラーに通ずるところがあるんですね。
宮台 フロイトもマルクスも19世紀の人です。アドラーもそう。しかしアドラーは19世紀の思想家としては異色です。19世紀は、フランス革命以降の〈反啓蒙の思考〉の時代です。人間は理性的でも合理的でもなく、感情的で非合理的な存在だとします。
そして非合理の理解について〈潜在性の思考〉を展開します。人も社会も、「見えるもの」が「見えないもの」に規定されているとする理解。典型的なものがマルクスとフロイトで、マルクスは、大衆文化から政治思想まで含めた上部構造が、生産関係すなわち所有関係からなる下部構造に規定されるとします。
他方フロイトは、我々の意識は無意識によって規定されるとする。つまり、アドラーが敵視したフロイトは「我々は規定されているがゆえに非合理的だ」とする19世紀的思考の典型です。フロイトを含めた19世紀的な〈潜在性の思考〉は、20世紀、正確には戦間期に入ると、知的先端から否定されます。
具体的には、ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論が典型です。従来、数多ある数学を、論理学(が明らかにする論理)が規定するとされてきました。彼はそれを否定。いろんな数学がまずあり、それを観察するゲームとして論理学がある。論理学が数学を根拠づけるなどあり得ないとしました。
数学という言語ゲームがあり、それとは無関係に、数学を観察する論理学という言語ゲームがある。要は「根拠がある」のでなく「根拠付けのゲームがある」だけ。事物に根拠などなく、さまざまな言語ゲームが存在するという事実性だけがある。根拠なるものは、観察する言語ゲームの内部表現に過ぎないと。
アドラーは20世紀的な〈自己言及の思考〉を先取りします。「見えるもの」が「見えないもの」に規定されるのでなく、規定されているという理解があるだけ。現在が過去に規定されているのでなく、規定されているという理解があるだけ。そんな理解がある種のゲームを可能にしているだけだとします。
知的先端を別にすると、大衆的には19世紀的な〈潜在性の思考〉が残ります。自分が不自由なのは、見えないものに規定されているからだ。見えないものとは、過去のトラウマだ。階級的な所有構造だ。そう言われると、ある種の帰属処理ゲームが始まって、気づきが生じたと錯覚。カタルシスが起こります。
「騙されていたんだ」「規定されていたんだ」と。規定されていた事実への気づきで自由になったと感じますが、実際は、苦痛が説明されて安堵し、敵が見つかり溜飲が下がっただけ。僕も中学時代にフロイトを読み、思春期の苦痛が、トラウマによって構造化された無意識に由来すると「気づき」、安堵しました。
そこでは「見えないもの」を「見る」のが精神科医で、フロイトを学んだ専門家だけが一般の人には「見えないもの」が「見える」。かくして、一般人に解を提供してくれる専門家たる精神科医のアカデミーが、権威を維持できます。ところがアドラーはこうした言語ゲームの全体を見通していたんですね。
アドラーは、19世紀的な〈反啓蒙の思考〉とは異なり、また18世紀的な〈啓蒙の思考〉とも異なる。啓蒙か反啓蒙かというのはメタ万物学(形而上学)、つまり近代哲学の問題設定ですが、岸見先生の本にもあるように、アドラーは、むしろ初期ギリシアの万物学、つまり現代哲学の問題設定なんです。
フロイト 対 アドラーは、〈潜在性の思考〉対〈自己言及の思考〉であり、メタ万物学(近代哲学)対 万物学(現代哲学)であり、ユダヤ的思考 対 ギリシア的思考。ユダヤ教徒フロイトは過去の引力(無意識による規定)を重視しますが、ギリシア哲学を出発点とするアドラーは未来の引力を重視します。
神保 なるほど。しかしこれだけ『7つの習慣』やデール・カーネギーに使われているのに、あまりアドラーの名前が表に出されていないのは何か理由があるんでしょうか?
岸見 アドラーから引いたということをあまり言いたくないんじゃないでしょうか? かなり印象的な考えですから、自分の独創だと言いたくなる人が多いのかもしれません。アドラーの思想のことを喩えて「共同採石場」と呼ぶことがあります。つまり皆がそこからいいところを取っていく、と。
神保 いいとこ取りということですね。アドラーもそれは構わないと考えていたんですか?
岸見 本人は極めておおらかで、アドラー派という学派が存在したことすら忘れられてもいいというような人だったそうです。しかし、それもあって多くの人がアドラーの思想のいいとこ取りをして、しかもその名前を冠しなかったという現実があります。ただ、僕はそれでもまだたくさん原石が残っていると思っています。彼らが持ち去らなかったものがある。まとまりもなく磨かれてもいないけれど、原石のまま光り輝くものがあるので、それをこれから見ていかないといけないと思っています。逆に言えば、そこを持っていかないとアドラーの本当のところが伝わらないと思うのです。表面的にはアドラーの考えに似ているようで、フタを開けると全然違うというような印象を受けることもありますので。